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【書評】もし、科学が詩人の価値、つまり一つの花を守るために動員されれば、 つまり、そのために役立てば、それは科学は文学に奉仕することになる。 科学と文学は対立するのではなくて、それは協力関係になる。by黒川眞一さん/ 森松 明希子・著『災害からの命の守り方ー私が避難できたわけー』(文芸社)

【書評】「宮崎・早野論文」とはなにか、
    そして何が問題であるのか、
    市民にわかりやすく解き明かしてくださった
    黒川眞一さん
   (高エネルギー加速器研究機構 名誉教授)が、
    素晴らしい書評を贈って下さいました。

    心から感謝申し上げます。
    黒川さんのご紹介くださる先達の珠玉の言葉は、
    圧倒的に説得力があります。
    そして時代を超えて勇気と希望と向かうべき方向を
    指し照らしてくれるようです。
   
 できるだけ多くの方々に広く共有していただきたいです。

 (写真左)『災害からの命の守り方
       ー私が避難できたわけ』(文芸社)

 (写真右上)黒川眞一さん 

 (写真右下)「伊達市民の被曝線量を過小評価した
             大規模住民データ解析論文
       ―科学の規範を成り立たせるための
           宮崎・早野論文への総合的批判」
        (岩波書店・科学 2021年8月号)

黒川眞一さん_書評.png

【書評】黒川 眞一さん(高エネルギー加速器研究機構 名誉教授)

1.この本は良く書かれた哲学書である。

この本は、2011年3月11日に起こった福島原子力惨禍により、
郡山から大阪に母子避難をした著者が、
日本国憲法前文に書かれている、
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(平和的生存権)、
そして憲法13条の「すべての国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と
憲法25条の「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
を根拠として、
「避難の権利を含む、被ばくからの自由」を憲法上の権利であると主張するにいたる過程を書いた本である。

私の一読後の感想は、よく書かれた哲学の本だというものである。
私が「哲学」の本であるとするのは、
加藤周一の「科学の方法と文学」という論考において指摘する、
「信条というものは、感情的出発点があって、
それがさらに思考過程と結びついて出来上がるものです。
その結びつきにおいて、主観的なものが客観化される。
内在的なものが外在化される。
伝達不可能なものが伝達される。
それは、結局、一言でいえば、
経験、あるいは価値の特殊性を普遍性へ向かって超えてゆこうとする精神の働き」が描かれているからである。
以下に加藤周一の論考のその前後を引用する。

(引用) だから、文学と信念と科学の関係は、
「私」から「われわれ」を通じて「みなさん」の方へ行く関係になる。
私からわれわれに移るところの問題、
この移行が信ずるという行為です。
ですから、信条というものは、感情的出発点があって、
それがさらに思考過程と結びついて出来上がるものです。
その結びつきにおいて、主観的なものが客観化される。
内在的なものが外在化される。
伝達不可能なものが伝達される。
それは、結局、一言でいえば、
経験、あるいは価値の特殊性を普遍性へ向かって超えてゆこうとする精神の働きです。
(中略)
もう一つの特徴は、
信じるというときには、
複雑なものの全体を問題にすることが多いということです。
(中略) しかるに複雑な対象の全体を問題にするときには、
科学的には、不可能です。
科学は必ずやその全体をまとめて一挙に取り扱う方法は、
科学のなかには内在していない。
しかし対象の全体に対して態度を決めなければならないということは、
人生のなかでわれわれが絶えず出会うことです。
戦争に対して、平和に対して、私の友達に対して、その人格の全体に対して、
その態度を決定しないかぎり行動することもできない。
その意味で、全体の認識はわれわれの人生にどうしても必要なわけで、
その必要なことは決して科学的にはできないから、
信じるということが、必然的になってくるでしょう。

もし世界を解釈することではなく、
世界を変えることが大事だとすれば、
世界を変えるためには、信じることが大事だ。
こういうことになります。(引用終わり)

2.基本的人権から考える

基本的人権とはどういうものかについて、
私は3人の偉大な先人の次のような言葉を常に思いだすようにしている。

まず、私が大学生のときに直接教えを受けることができた
鶴見俊輔先生の言葉である、
人権というものは言葉としてわかっているだけではだめだ。
人権の侵害に即座に反応するバネを自分の中に作らなければならない
」。

次に、羽仁五郎さんの
基本的人権とは水をいれる甕(かめ)のようなものだ。
ほんの小さな傷がついても甕は水をためることができなくなる。
それゆえ、どんな小さな人権侵害も許してはいけないのだ
」。

そして、最後に、ハーバート・ノーマンが
「日本の兵士と農民」のあとがきに書いた次の言葉である。
「さて、過去において、日本の為政者が人民の直接の政治関与を妨げ、
またそれを抑えてきたために、
日本人はものごとに消極的な態度をとる習慣を身につけています。
これはどういうことかと言えば、
不正が行われているときに、腕をこまねいて傍観していることを意味します。
人権を護るのに勇気がどうしても必要であるということを
17 世紀のイギリス初期民主主義者はつぎのように雄弁にいいあらわしています。
なぜなら、一人の身にふりかかることは万人の身にふりかかるだろうからである。
すべては一つの同胞なのであるから、
一人だけ不当に苦しむのはよくない。
みなともに一人の擁護につとめるべきである。
さもなければ、恣意と権力に途を譲り、
その虐政と抑圧の狂瀾(きょうらん)は
法と自由の堰(せき)を越えて襲いかかるだろう。
他人のために努めないならば、
たとえ露ほども思わないでも、
自分の権利に背き、権威に屈し、
自由の人も奴隷とすることになり

平地に波瀾を起こすのを惧れる(おそれる)あまり、
今の世はおろか後の世までも裏切りの汚名を残すことになるだろう。』」

私がこの3名の先人に習ったことを、
著者の森松さんは、自ら考え自分の言葉で著書の中で表現している。

例えば、
『人権』を単語として知ってはいても、
基本的人権を全身全霊で感じ、
尊厳を持って自分が本来手にしている基本的人権を全力で死守することが、
一番「命が守られる」ことに結果的につながる、
今、私は確信を持ってそう結論づけているのです。
」389ページ
これは私が鶴見俊輔先生から教えていただいたことそのものである。

3・11をさかいに、私はマイノリティ(社会的少数者)となりました。
(中略) しかし、たとえマイノリティであったとしても、
人権が踏みにじられたり、ないがしろにされて良いわけはありません。
(中略) 3・11から学ぶべきことは、たとえ少数であったとしても
(書評者注:人権を侵害されている人々が少数であったとしても)、
基本的人権が尊重される社会を実現しなければならないということです。
」121ページ

まず少数の人々の基本的人権が侵害される。
これが、羽仁五郎がいう「甕の傷であり」、
ノーマンが引用する「一人の身にふりかかることは万人の身にふりかかる」ということである。

私たちの生きている日本という国では、
権利の主張を忌み嫌う傾向(国民性と言って良いのかもしれない)があるように感じます。
」344ページ
これはノーマンの冒頭の指摘そのものである。

3.避難の権利を含む、被ばくからの自由

「避難の権利を含む、被ばくからの自由」について、
著者は、第8章<逃げることは権利だ>の
9節 <「被ばくからの自由」の具体的権利内容>において
緻密な議論を展開している(267ページから271ページ)。

著者はこの権利は、
(1)絶対的被ばく拒否権、
(2)選択的被ばく回避権、
(3)被ばく情報コントロール権

の3つからなるとする。

「被ばくそのものが絶対的な生命・健康に関する権利の侵害であることが、
紛れもない事実であることから、人は生まれながらにして基本的に、
被ばくを絶対的に拒否することができるという権利」
すなわち絶対的被ばく拒否権があることをまず指摘し、
その上に、
「被ばくさせられる状況があることを知ったときには、
自由にいつからでも被ばくを回避する権利」
すなわち選択的被ばく回避権があり、
この回避権を行使するまたは行使しない自由が各個人にあるゆえに、
「避難の権利」は、この「選択的被ばく回避権」の行使であることを導く。
さらに
以上の2つの権利を行使するためには、
「被ばく情報コントロール権」、
すなわち、被ばく量や被ばく期間についての情報を知る権利が不可欠であり、
国や東京電力は市民に正確な情報を知らせる義務がある。
それにもかかわらず、国や東京電力は市民に情報を伝えず、
「被ばく情報コントロール権」が侵害されていることを指摘している。

評者は、森松さんが書く次の文章を特に重要と思うゆえ、
長くなるが、以下に引用する。

絶対的被ばく拒否権と、選択的被ばく回避権は、両立するものなのです。
すなわち、選択的に被ばくを回避することが、
いつからでも、自由に、誰にでもできるということなのです。
そうであるにもかかわらず、放射能をばらまいた加害の側が勝手に強制避難区域を線引きし、
区域内外を設定し被ばく回避の道筋を保障せず、
また、被ばく回避の開始時や終了時を決めることなど、
権利侵害の上乗せ以外の何物でもないと言えると思います。
人は無用な被ばくに対し、
それを避けたいと思えば、どのタイミングからでも被ばく回避権を行使し(始期の自由)、
被ばくのリスクがあるかぎり回避し続け(期間の自由)、
被ばくの状況がなくなるまで、
もしくは被ばくを避ける権利よりも大切な権利のために、
一旦被ばく回避権を終了させることができると考えます(終期の自由)。
被ばく回避権は、どの段階においても妨害されることはなく、
そのための費用や負担が生じたときには、
それを補償しなければ、それは不作為による権利侵害にあたるといえるのです。


ここには強制避難区域の勝手な線引きを行い、
被ばく回避の開始や終了を決めているのが、
放射能をばらまいた側の国と東京電力であり、
彼らに区域内外のどちらからの避難であっても補償の義務があることを明確にしたうえで、
住民の側に被ばく回避権を行使する自由があることを示している。

4.日本政府はGPIDを無視している

著者は、第5章2節において、
「避難の権利を含む、被ばくからの自由」は1998年に国連で採択された、
Guiding Principles on Internally Displacement (GPID)
という原則に定められたものであることを紹介している。
外務省による日本語仮訳ではこの原則は、
「国内避難に関する指導原則」であり、
GPID日本語版作成委員会(代表:墓田 桂)訳では
「国内強制移動に関する指導原則」とされている。
この原則の序にあたる「範囲及び目的」の2に
国内避難民」の定義が書かれている。
以下に示す訳文は墓田訳である。

「これらの原則の適用上、
国内避難民とは、特に武力紛争、一般化した暴力の状況、人権侵害もしくは自然もしくは人為的災害の影響の結果として、またはこれらの影響を避けるため、自らの住居もしくは常居所地から逃れもしくは離れることを強いられまたは余儀なくされた者またはこれらの者の集団であって、国際的に承認された国境を越えていないものをいう。」

「国内避難民」の定義には、「自然もしくは人為的災害の影響の結果として、またはこれらの影響を避けるため、自らの住居もしくは常居所地から逃れもしくは離れることを強いられまたは余儀なくされた者またはこれらの者の集団」と定義されており、福島原子力惨禍から避難した人々は「国内避難民」であることは明らかである

それではGPIDは国内雛民に対しどのようなことを規定しているのだろうか。
それは、序の1に明示されている。
墓田訳がわかりにくいので、下の英文の原文を示し、評者の訳を付加する。

These Guiding Principles address the specific needs of internally displaced persons worldwide. They identify rights and guarantees relevant to the protection of persons from forced displacement and to their protection and assistance during displacement as well as during return or resettlement and reintegration.

訳文
この原則は、世界のどの地域においても国内避難者がぜひとも必要とするものについて規定している。この原則は国内避難者がどのような権利を持つかを特定し、強制的な移住から彼らを守るうえで必要となる保護を保障し、強制移住された期間および帰還、再定住および再統合の期間において必要となる保護と援助について規定するものである。

そして原則3は次にように国に国内避難民を保護し援助する責任を規定している。

原則 3

1. 国家当局は、その管轄内にある国内避難民に対して保護および人道的援助を与える第一義的な義務および責任を負う。

2. 国内避難民は、国家当局に対して保護および人道的援助を要請し、かつ、国家当局からこれらを受ける権利を有する。国内避難民は、そのような要請を行うことにより迫害されまたは処罰されてはならない。

日本政府は、国連人権理事会での勧告を受けて、この「国内強制移動に関する指導原則」を2019年に「国内避難に関する指導原則」として和訳したが、実際の政策には反映することなく、国内避難民を保護する責任をほとんど果たしていない。

そのことは、森松さんの著書の190ページに、

復興庁、避難者消したら、復興か」 もとい、
復興庁 早く私を 数えてよ

という川柳が載っていることに端的に示されている。

二番目の川柳は、森松さん自身が避難者として数えられていないことを唄ったものである。

さらに原則15の(d)には、「自己の生命、安全、自由および健康が危険にさらされる恐れのあるいかなる場所への強制的な帰還または再定住から保護される権利」を国内避難民が保持することを規定している。

日本政府が、国内避難民の権利を一貫して侵害し続けてきたことは、
森松さんの、この著書に詳しく書かれている。

その結果、多くの方が、不本意な帰還や再定住、
そして、あきらめを余儀なくされている。
これは、「自己の生命、安全、自由および健康が危険にさらされる恐れのあるいかなる場所への強制的な帰還から保護される権利」を実質的に侵害していることにほかならず、GPIDに反する行為である

5.9年間の思考の結晶である叡智の数々

森松さんの473ページの大著の中には、
森松さんの原子力惨禍以後の9年間の思考の結果である数多くの叡智が示されている。
そのいくつかを紹介する。

「パニックは、パニックを起こす側に問題がある」という、先入観を持つ人が多すぎると思います。しかし、3・11後に私が掴んだ事実の一つが、「パニックは、パニックを起こさせる側に問題がある」ということです。」(347ページ)

同じ害悪が原因で被害を被っているのに、
「誰の」「何の」権利が侵害されているのかを見極めないまま、整理されないままですと、
ともすれば、同じ被害を受ける者同士が敵味方に分かれ、
潰しあっているように見受けられます(いわゆる分断)。
でも普遍的な「権利」、みんながもっている「権利」から考えるという風に
発想を転換すれば、無用な争いや目先の利益に惑わされることもないように思います
。」(370ページ)

『専門家』の見解というのも、
誰の何の利益を守っている発言なのかということを、
注視してみていかなければならないのです。
」(406ページ)

6.おわりに

現在、日本政府は、強制避難地域への帰還を推し進めようとしている。
強制避難を解除して、福島原子力惨禍を終わったことにしようとしているのである。
そして、この次に大規模な放射能汚染をともなう原子力惨禍が起きたときには、
住民が避難することを許さず、汚染地に暮らし続けることを強制すると考えられれる。

評者は、これまでの5年間、
いわゆる宮崎早野論文を批判し続けてきたものである。

評者が何を批判しているかについては、
岩波書店「科学」2021年8月号
評者と島明美氏と共著論考
「伊達市民の被曝線量を過小評価した大規模住民データ解析論文
―― 科学の規範を成り立たせるための宮崎・早野論文への総合的批判」

を読んでいただきたい。
ここでは宮崎・早野第2論文の結論を引用して、この論文が、
次に大規模な放射能汚染をともなう原子力惨禍が起きたときには、住民が避難することを許さず、汚染地に暮らし続けることを強制する」ことを想定していることを示す。なお論文の日本語訳は評者によるものである。
第2論文の結論からの引用

「比例係数 c=0.15 が一般的に成り立つのでなくても、
著者たちは、この方法は、将来、周辺線量と個人線量の比例係数 c を求めることを 目的とした小規模の個人線量モニタリング調査によって補強された、定期的な航空機によるモニタリング調査によって汚染地域に住む住民の生涯線量を信頼度高く評価することが可能であると信ずる。」

比例係数 c とは、個人の被ばく線量率を、
その個人が住む住宅の付近の空間線量率で割った値のことであり、
c=0.15とは係数の平均値である(注)。

この結論に書いてあることは、
将来大規模な放射線汚染をともなう原発事故が起きたときには、
定期的に航空機による空間線量率の測定を行い、
係数=0.15ないしは小規模な個人線量モニタリングで得られた似たような係数の平均値を使えば、
住民が生涯どれだけの被ばくをするかが分かるので、
住民を汚染地域に住み続けさせることができるということである。

各個人の特性は無視され、年齢、性別、行動様式などはどうでもよく、
あくまでも係数の平均値によって代表される集団とみなされることになる


森松さんのこの本は、
このようなディストピアをもたらさないためには私たちは何をするべきかを考えるための本である

(注) 0.15は大幅に過小評価された結果だされたものである。
各種の過小評価を補正すれば、この値は0.6ぐらいに修正されなければならない。

最後に、加藤周一の「科学の方法と文学」という論考に戻り、
この書評を終わることにする。

加藤周一は、論考の中頃で、
聖書のマタイ伝6章28-29の言葉を次のように引用する。
「このことをたいへん美しい言葉でいっているのは、
『ソロモンの栄華も野のユリの一つにしかざりき』でしょう。
社会的な交換価値、市場価値からいえば、
何百万倍の価値がソロモンの栄華にあって、
野のユリの一つは、ほとんどただみたいなものです。
しかし詩人の立場からみれば、
野のユリの一つは何ものにもかえることができないのです。
さらに、論考の終わり近くに、次のように書く。
何を守るべきかを決めるのは文学で、
いかにして守るかということを決めるのは科学です。


加藤周一が「野のユリ」というものは、
森松さんの著書でいえば「命」のことであると考える。

評者は、この書評の冒頭で、
森松さんのこの本を「哲学の本」と書いた。
しかし、森松さんの本は、「文学の本」でもあると思う。

そして、科学者である評者は、
加藤周一が論考の終わり近くに書いた次の言葉を紹介したい。
もし、科学が詩人の価値、つまり一つの花を守るために動員されれば、
つまり、そのために役立てば、それは科学は文学に奉仕することになる。
科学と文学は対立するのではなくて、それは協力関係になる。
こういうことだろうと思う。


哲学の本であり、同時に文学の本でもある森松明希子著の「災害からの命の守り方」を読めたことは、
評者にとって大きな収穫であった。


(全7,761文字)

素晴らしい書評をありがとうございます。
できるだけ多くの皆さまにご一読いただきたいです。

(参照)

※黒川眞一さん(高エネルギー加速器研究機構 名誉教授)のご紹介
◆被災地の被曝線量を過小評価してはならない - 黒川眞一|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
https://webronza.asahi.com/.../articles/2017051000005.html
◆「伊達市民の被曝線量を過小評価した大規模住民データ解析論文―科学の規範を成り立たせるための宮崎・早野論文への総合的批判」(「科学」 2021年8月号 - 岩波書店 )
https://www.iwanami.co.jp/book/b588079.html
◆「住民に背を向けたガラスバッジ論文――7つの倫理違反で住民を裏切る論文は政策の根拠となり得ない」(黒川眞一・島 明美「科学」2019年2月号-岩波書店)
https://www.iwanami.co.jp/kagaku/KaMo201902.html

◎『災害からの命の守り方ー私が避難できたわけー』森松明希子・著(文芸社)
http://sandori2014.blog.fc2.com/blog-entry-2422.html
※皆さまのお近くの図書館へのリクエストをよろしくお願い申し上げます。


黒川眞一さんの原稿(全文7,761文字)を公開しています。


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