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【報告】6/29(月)ホッとネットおおさか事務局会議参加報告と次回予定
6月29日(月)ホッとネットおおさか事務局会議に
3.11避難当事者として出席させていただきました。
■次回、ホッとネットおおさか事務局会議は
8月10日(月)10〜12時@大阪市社協
■その前には、3.11避難当事者はどなたでも参加できる
ホッとネットおおさか定例会が
7月9日(木)13時半〜16時@大阪弁護士会館10F
があります。
※サンドリは3.11避難当事者団体として、
避難者の「生の声」「今現在の声」を届ける使命感を持って、
常に会議に参加させていただいています。
3.11避難当事者として出席させていただきました。
■次回、ホッとネットおおさか事務局会議は
8月10日(月)10〜12時@大阪市社協
■その前には、3.11避難当事者はどなたでも参加できる
ホッとネットおおさか定例会が
7月9日(木)13時半〜16時@大阪弁護士会館10F
があります。
※サンドリは3.11避難当事者団体として、
避難者の「生の声」「今現在の声」を届ける使命感を持って、
常に会議に参加させていただいています。
7月9日(木)「ホッとネットおおさか」第18回定例会@大阪弁護士会館のご案内
ホッとネットおおさか(大阪府下避難者支援団体等連絡協議会)の
第18回定例会のご案内が届きましたのでお知らせします。
避難者の方はどなたでも参加出来ます(個人でも団体でも)。
会議出席ご希望の方は、下記連絡先まで。
【第18回定例会(平成27年7月9日)のご案内】
今回は、5月17日の「ホッとネットおおさか」避難者交流会の振り返り、
福島県の公営住宅の支援打ち切り問題、
今後の支援のあり方等を話題にしたいと思います。
今回も積極的にご出席いただきますようにお願いいたします。
なお、各団体の最近の活動についても、みなさんで共有したいと思いますので、
よろしくお願いします。
「ホッとネットおおさか」 第18回定例会
平成27年7月9日(木)午後1時30分~4時00分
会場:大阪弁護士会館 10階会議室
住所:〒530-0047 大阪市北区西天満1-12-5
【内容】
〇 ホッとネットおおさか主催の「避難者交流会」の報告
〇 活動報告
・・・ 復興支援すいた市民会議の活動
〇 今後の避難者の戸別訪問活動
・・・ 5団体による近畿避難者の個別訪問の取り組みを中心に
〇 福島県の公営住宅の無償提供の期限について
〇 宮城県避難者交流会などの支援活動
〇 避難当事者・支援団体の皆さんからのご報告
〇 事務局からのお願い・報告 など
【問合せ先】 大阪弁護士会 相談1課 (担当:田中)
TEL:06-6364-1238
「大阪府下避難者支援団体等連絡協議会」事務局団体
大阪府社会福祉協議会/大阪市社会福祉協議会/大阪弁護士会/全日本企業福祉協会
=============================
FAX送信先:大阪弁護士会相談課:田中宛
FAX:06-6364-5069
=============================
ホッとネットおおさか(大阪府下避難者支援団体等連絡協議会)
第18回 定例会
平成27年7月9日(木) 午後1時30分~4時00分
会場;大阪弁護士会館 10階会議室
□ 参加します
□ 欠席します
参加団体名
参加者名
(計 名)
ご連絡先
TEL: FAX:
※最近の避難者支援のための活動の近況や考えていることなど、お気軽にお書き下さい。当日、みなさんで紹介できればと思います。
また、当日配布したい資料があれば、40部程度ご準備ください。
連絡及び問合せ先
大阪弁護士会 相談1課 事務局 田中 ℡ 06-6364-1238
第18回定例会のご案内が届きましたのでお知らせします。
避難者の方はどなたでも参加出来ます(個人でも団体でも)。
会議出席ご希望の方は、下記連絡先まで。
【第18回定例会(平成27年7月9日)のご案内】
今回は、5月17日の「ホッとネットおおさか」避難者交流会の振り返り、
福島県の公営住宅の支援打ち切り問題、
今後の支援のあり方等を話題にしたいと思います。
今回も積極的にご出席いただきますようにお願いいたします。
なお、各団体の最近の活動についても、みなさんで共有したいと思いますので、
よろしくお願いします。
「ホッとネットおおさか」 第18回定例会
平成27年7月9日(木)午後1時30分~4時00分
会場:大阪弁護士会館 10階会議室
住所:〒530-0047 大阪市北区西天満1-12-5
【内容】
〇 ホッとネットおおさか主催の「避難者交流会」の報告
〇 活動報告
・・・ 復興支援すいた市民会議の活動
〇 今後の避難者の戸別訪問活動
・・・ 5団体による近畿避難者の個別訪問の取り組みを中心に
〇 福島県の公営住宅の無償提供の期限について
〇 宮城県避難者交流会などの支援活動
〇 避難当事者・支援団体の皆さんからのご報告
〇 事務局からのお願い・報告 など
【問合せ先】 大阪弁護士会 相談1課 (担当:田中)
TEL:06-6364-1238
「大阪府下避難者支援団体等連絡協議会」事務局団体
大阪府社会福祉協議会/大阪市社会福祉協議会/大阪弁護士会/全日本企業福祉協会
=============================
FAX送信先:大阪弁護士会相談課:田中宛
FAX:06-6364-5069
=============================
ホッとネットおおさか(大阪府下避難者支援団体等連絡協議会)
第18回 定例会
平成27年7月9日(木) 午後1時30分~4時00分
会場;大阪弁護士会館 10階会議室
□ 参加します
□ 欠席します
参加団体名
参加者名
(計 名)
ご連絡先
TEL: FAX:
※最近の避難者支援のための活動の近況や考えていることなど、お気軽にお書き下さい。当日、みなさんで紹介できればと思います。
また、当日配布したい資料があれば、40部程度ご準備ください。
連絡及び問合せ先
大阪弁護士会 相談1課 事務局 田中 ℡ 06-6364-1238
大阪府生活協同組合連合会主催の「お盆里帰りバス」のご案内
大阪府生活協働組合連合会さまより、
「お盆里帰りバス」のご支援のお知らせを頂きましたので、
ご案内いたします。
母子避難、父子避難、家族離散、家族内でも考え方の違い、世代によって
避難する・とどまると異なる選択を余儀なくされた避難者に
4年以上経った今も寄り添い続けて下さるご支援に、
心から感謝申し上げます。
避難元への夏休み一時帰宅のご予定にお役立てください。
避難している皆さんが、
1回でも多く、家族再会の機会が得られますように・・・
【大阪府生活協同組合連合会主催の「お盆里帰りバス」のご案内】
運行期間 8月12日(水)夜 大阪発 〜8月17日(月)朝 大阪着
片道のみの利用も可
停車地 東京駅・いわき駅・郡山駅・仙台駅
対 象 東日本大震災により関西に避難している人
参加費 無料
定 員 30名(応募多数の場合は抽選)
停車地 8/12 21時発 → 8/13 5時 → 8時半 → 10時→12時10分
大阪 ・東京駅 ・いわき駅 ・郡山駅 ・仙台駅
8/17 8時 ← 21時 ← 18時半 ← 16時半 ←8/17 15時発
の予定です。
7月29日(水)17時まで締切となります。
先着順ではなく、応募多数の場合抽選となります。
・当落の連絡は、8/1頃に郵送
・当選者のみ詳細を案内
・乗降場所は参加者の状況によって寄らない場合があります。
・往路または復路のみの利用もできます。
お申込・お問合わせ 大阪府生活協同組合連合会
TEL: 06-6762-7220
※平日9時〜17時の間でお願いします。
「お盆里帰りバス」のご支援のお知らせを頂きましたので、
ご案内いたします。
母子避難、父子避難、家族離散、家族内でも考え方の違い、世代によって
避難する・とどまると異なる選択を余儀なくされた避難者に
4年以上経った今も寄り添い続けて下さるご支援に、
心から感謝申し上げます。
避難元への夏休み一時帰宅のご予定にお役立てください。
避難している皆さんが、
1回でも多く、家族再会の機会が得られますように・・・
【大阪府生活協同組合連合会主催の「お盆里帰りバス」のご案内】
運行期間 8月12日(水)夜 大阪発 〜8月17日(月)朝 大阪着
片道のみの利用も可
停車地 東京駅・いわき駅・郡山駅・仙台駅
対 象 東日本大震災により関西に避難している人
参加費 無料
定 員 30名(応募多数の場合は抽選)
停車地 8/12 21時発 → 8/13 5時 → 8時半 → 10時→12時10分
大阪 ・東京駅 ・いわき駅 ・郡山駅 ・仙台駅
8/17 8時 ← 21時 ← 18時半 ← 16時半 ←8/17 15時発
の予定です。
7月29日(水)17時まで締切となります。
先着順ではなく、応募多数の場合抽選となります。
・当落の連絡は、8/1頃に郵送
・当選者のみ詳細を案内
・乗降場所は参加者の状況によって寄らない場合があります。
・往路または復路のみの利用もできます。
お申込・お問合わせ 大阪府生活協同組合連合会
TEL: 06-6762-7220
※平日9時〜17時の間でお願いします。
7月19日(日)みんなで公害を学びあおう 福島原発の被災者と西淀川大気汚染の被害者から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
みんなで公害を学びあおう
福島原発の被災者と西淀川大気汚染の被害者から
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日時:2015年7月19日(日) 13:00-16:00
場所:あおぞらビル3階グリーンルーム
〒555-0013 大阪市西淀川区千舟1-1-1
JR御幣島駅11番出口すぐ
定員 40人 要申込(7/17まで)託児あり
参加費 無料
アクセス http://aozora.or.jp/accesscontact
主催:あおぞら財団
協力:大阪市立大学除本理史ゼミ
地球環境基金助成事業
オプション:2015年7月19日(日) 16:00-17:00
西淀川フィールドワーク
解散場所 阪神なんば線出来島駅
ちらし http://qq4q.biz/lZhZ
大阪西淀川は、工場と自動車の排ガスによる大気汚染公害に悩まされた地域です。公害患者が裁判に立ちあがり、21年の長きにわたって国と企業と戦い、裁判に勝利しました。裁判の和解金は地域再生に活用され、まだ自動車による大気汚染の問題を残しつつも、患者・住民・行政・企業の協力した取り組みで街は改善され、子育て世代を中心に人口が増えています。
現在の大きな公害問題は、福島の原発問題です。福島の原発関係の訴訟は21にも上り、原告数は1万人を超えました。大阪にも福島原発の被害を逃れて避難してきた人たちが多く、その方々も裁判を提訴しています。
公害の問題はどこにあるのか、共通点があるのか。関西在住の福島の被災者と西淀川公害の裁判の原告のみなさんからお話を伺うことで、公害について考える時間を持ちたいと思います。
<オプション> 西淀川フィールドワーク
移動:徒歩 歩きやすい靴でご参加ください
あおぞら財団→大野川緑陰道路→関西スーパー→あおぞら苑→千北診療所→43号線→出来島小学校(大気汚染の測定所)→出来島駅
<連絡先>
公益財団法人公害地域再生センター(あおぞら財団) 担当:林
〒555-0013 大阪市西淀川区千舟1-1-1あおぞらビル4階
TEL06-6475-8885 FAX06-6478-5885
webmaster@aozora.or.jp
(参照)あおぞら財団のホームページ


みんなで公害を学びあおう
福島原発の被災者と西淀川大気汚染の被害者から
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日時:2015年7月19日(日) 13:00-16:00
場所:あおぞらビル3階グリーンルーム
〒555-0013 大阪市西淀川区千舟1-1-1
JR御幣島駅11番出口すぐ
定員 40人 要申込(7/17まで)託児あり
参加費 無料
アクセス http://aozora.or.jp/accesscontact
主催:あおぞら財団
協力:大阪市立大学除本理史ゼミ
地球環境基金助成事業
オプション:2015年7月19日(日) 16:00-17:00
西淀川フィールドワーク
解散場所 阪神なんば線出来島駅
ちらし http://qq4q.biz/lZhZ
大阪西淀川は、工場と自動車の排ガスによる大気汚染公害に悩まされた地域です。公害患者が裁判に立ちあがり、21年の長きにわたって国と企業と戦い、裁判に勝利しました。裁判の和解金は地域再生に活用され、まだ自動車による大気汚染の問題を残しつつも、患者・住民・行政・企業の協力した取り組みで街は改善され、子育て世代を中心に人口が増えています。
現在の大きな公害問題は、福島の原発問題です。福島の原発関係の訴訟は21にも上り、原告数は1万人を超えました。大阪にも福島原発の被害を逃れて避難してきた人たちが多く、その方々も裁判を提訴しています。
公害の問題はどこにあるのか、共通点があるのか。関西在住の福島の被災者と西淀川公害の裁判の原告のみなさんからお話を伺うことで、公害について考える時間を持ちたいと思います。
<オプション> 西淀川フィールドワーク
移動:徒歩 歩きやすい靴でご参加ください
あおぞら財団→大野川緑陰道路→関西スーパー→あおぞら苑→千北診療所→43号線→出来島小学校(大気汚染の測定所)→出来島駅
<連絡先>
公益財団法人公害地域再生センター(あおぞら財団) 担当:林
〒555-0013 大阪市西淀川区千舟1-1-1あおぞらビル4階
TEL06-6475-8885 FAX06-6478-5885
webmaster@aozora.or.jp
(参照)あおぞら財団のホームページ


7月10日(金)「日本と原発」上映会&おはなし会@神戸大学
「復興」を多面的にとらえる試みの第1弾。原発訴訟を行う弁護士によるドキュメンタリー映画。
復興に及ぼす原発の問題を、避難者ママのおはなしもふまえ捉えかえします。
【映画「日本と原発」上映会&おはなし会】のご案内
日時:2015 年 7月10 日(金)
時間:10:40 ∼ 14:00
場所:神戸大学国際文化学部 K402
対象:大学生、一般
要申込・参加費無料
*お子様連れ OK
問合せ・申込み:神戸大学学生ボランティア支援室
E-mail: hq-vol@lab.kobe-u.ac.jp
(エイチ キュウ ハイフン ヴィ オー エル@エル エー ビー ストーリー)
Tel: 078-803-6256
10:40 スタート(開場:10:00)
10:45 上映開始(70 分版)
11:55 上映終了
ランチ休憩(持ち込み可)
県外避難者ママのおはなし
質疑応答(座談会形式)
14:00 終了
この映画は、弁護士河合弘之と盟友弁護士海渡雄一、訴訟を共に闘う木村結の 3 人が多くの関係者、 有識者にインタビュー取材を行い、現地での情報収集や報道資料を基に事故に巻き込まれた人々の 苦しみ、原発事故を引き起こした背景、改善されない規制基準、エネルギー政策のウソと真実を追求 したドキュメンタリー映画である。
製作・監督/河合弘之 構成・監修/海渡雄一 制作協力/木村結 音楽/新垣隆 脚本・編集・監督補 拝身風太郎 制作/ K プロジェクト

復興に及ぼす原発の問題を、避難者ママのおはなしもふまえ捉えかえします。
【映画「日本と原発」上映会&おはなし会】のご案内
日時:2015 年 7月10 日(金)
時間:10:40 ∼ 14:00
場所:神戸大学国際文化学部 K402
対象:大学生、一般
要申込・参加費無料
*お子様連れ OK
問合せ・申込み:神戸大学学生ボランティア支援室
E-mail: hq-vol@lab.kobe-u.ac.jp
(エイチ キュウ ハイフン ヴィ オー エル@エル エー ビー ストーリー)
Tel: 078-803-6256
10:40 スタート(開場:10:00)
10:45 上映開始(70 分版)
11:55 上映終了
ランチ休憩(持ち込み可)
県外避難者ママのおはなし
質疑応答(座談会形式)
14:00 終了
この映画は、弁護士河合弘之と盟友弁護士海渡雄一、訴訟を共に闘う木村結の 3 人が多くの関係者、 有識者にインタビュー取材を行い、現地での情報収集や報道資料を基に事故に巻き込まれた人々の 苦しみ、原発事故を引き起こした背景、改善されない規制基準、エネルギー政策のウソと真実を追求 したドキュメンタリー映画である。
製作・監督/河合弘之 構成・監修/海渡雄一 制作協力/木村結 音楽/新垣隆 脚本・編集・監督補 拝身風太郎 制作/ K プロジェクト

7月4日(土)8・6ヒロシマ平和の夕べ(プレ企画)シンポジウム@兵庫勤労市民センター
【8・6ヒロシマ-平和の夕べ-(プレ企画)シンポジウム】
と き: 7月4日(土) 13:30〜16:30 資料代800円(高校生以下 無料)
ところ: 兵庫勤労市民センター 講習室 (JR「兵庫」北 、陸橋渡る)
☆発言☆
①ぼくは満員電車で原爆を浴びた
米澤鐡志さん(広島電車内被爆者)
②「平和利用」を欺瞞した、原発も核兵器も廃絶を
千葉孝子さん(芦屋市原爆被害者の会会長)
③「避難の権利」確立を求めて
森松明希子さん
(郡山市から関西ヘ避難。原発賠償関西訴訟原告団代表・
東日本大震災避難者の会Thans&Dream代表)
パネル討論(質問、意見、補足スピーチ)
同時: 写真展(「辺野古新基地に抗って」
11:00〜16:30午前中展示のみの入場は無料)
主催: 8・6ヒロシマ-平和の夕べ- 実行委員会
連絡先(神戸) 090-2063-9452
(広島)〒733-0003広島市西区三篠町1-11-9 福見ビル1F 夢や事務所
■2015.7.4シンポジウムのチラシ


7月5日(日) 南相馬 避難20ミリ基準撤回訴訟を応援する 全国集会 in 京都
「7月5日 南相馬 避難20ミリ基準撤回訴訟を応援する
全国集会 in 京都」
◆日 時:7月5日(日)13:30~16:30
◆場 所:京都YWCA・住所京都市上京区室町通出水上ル近衛町44
(地下鉄烏丸線・丸太町駅から徒歩5分
丸太町駅2番出口より北へ5分 2つ目の信号を左折)
◆内 容:
・「20ミリシーベルト」~被ばく影響を無視する国の政策
・ 南相馬・避難20ミリ基準撤回訴訟の意義(弁護団)
・ 南相馬の現状(小澤洋一さん/原告)
・ 避難者支援打ち切りの中で~避難の権利を!
・ 原発再稼動との関係は
・ 協力団体からのアピール
◆参加費:500円
◆主 催:南相馬・避難20ミリシーベルト撤回訴訟支援の会
◆協力(五十音順):グリーン・アクション、子どもたちに未来をわたしたい・
大阪の会、 子ども脱被ばく裁判、 ネットワークあすのわ、
福島原発告訴団関西支部、 美浜・大飯・高浜原発に反対する大阪の会
◆問い合わせ先:南相馬・避難20ミリシーベルト撤回訴訟支援の会 事務局
FoE Japan 〒173-0037 東京都板橋区小茂根1-21-9
Tel:03-6909-5983 Fax:03-6909-5986
※支援の会の会員・サポーターも募集しています! 詳しくは下記をご覧ください。
http://minamisouma.blogspot.jp/2015/05/20.html
(チラシは下記からダウンロードできます)
https://dl.dropboxusercontent.com/u/23151586/kyoto_150705.pdf
全国集会 in 京都」
◆日 時:7月5日(日)13:30~16:30
◆場 所:京都YWCA・住所京都市上京区室町通出水上ル近衛町44
(地下鉄烏丸線・丸太町駅から徒歩5分
丸太町駅2番出口より北へ5分 2つ目の信号を左折)
◆内 容:
・「20ミリシーベルト」~被ばく影響を無視する国の政策
・ 南相馬・避難20ミリ基準撤回訴訟の意義(弁護団)
・ 南相馬の現状(小澤洋一さん/原告)
・ 避難者支援打ち切りの中で~避難の権利を!
・ 原発再稼動との関係は
・ 協力団体からのアピール
◆参加費:500円
◆主 催:南相馬・避難20ミリシーベルト撤回訴訟支援の会
◆協力(五十音順):グリーン・アクション、子どもたちに未来をわたしたい・
大阪の会、 子ども脱被ばく裁判、 ネットワークあすのわ、
福島原発告訴団関西支部、 美浜・大飯・高浜原発に反対する大阪の会
◆問い合わせ先:南相馬・避難20ミリシーベルト撤回訴訟支援の会 事務局
FoE Japan 〒173-0037 東京都板橋区小茂根1-21-9
Tel:03-6909-5983 Fax:03-6909-5986
※支援の会の会員・サポーターも募集しています! 詳しくは下記をご覧ください。
http://minamisouma.blogspot.jp/2015/05/20.html
(チラシは下記からダウンロードできます)
https://dl.dropboxusercontent.com/u/23151586/kyoto_150705.pdf
7月30日(木)『避難の権利』を求める裁判@大阪地裁(原発賠償関西訴訟)第5回口頭弁論期日


【裁判所に「声」を届け隊】よりお知らせです。
☆3.11避難者の皆さまへ
裁判期日およびそれに続く報告集会には、最も多くの避難者が集まります。
孤立している避難者の方がおられましたら、
是非お近くで行われる「避難の権利」を求める裁判の傍聴、
それに続く報告会にご参加されてみてください(どなたでも無料で傍聴可能です)。
きっと沢山の避難者されている方々とつながることができるはずです。
避難者同士はこの4年数ヶ月の間に随分とつながることが出来ました。
同じ避難元、近い境遇の方と出会えるかもしれません。
また、「避難している」という貴方の存在が、
他の避難者の励みにもなったりします。
孤立し、一人で悩んでいる避難者の方々が、
お一人でも多く、救われますように・・・。
☆すべての皆さまへ
東日本大震災とそれに伴う福島第一原子力発電所の事故の影響で、
今なお避難生活を続けている多くの人びとが、
全国47都道府県に存在しています。
(その正確な実数も実態も誰も把握はしていませんが。)
関西に避難している人たちが、
なぜ避難生活を続けているのか、
その真実の声を、裁判所にも届けています。
是非、宣誓し、真実を包み隠さず、
正々堂々と司法の場で
避難者の「声」を伝える避難者のご支援も、
どうぞよろしくお願い申し上げます。
(もちろん裁判だけが唯一の伝える方法ではありません。)
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream
【裁判所に「声」を届け隊】一同
連絡先 sandori2014@gmail.com
【避難者の感想】映画「日本と原発」の感想・・・現実を知らないと前に進めない・・・
映画「日本と原発」の感想が届きました。
【3.11避難者の感想】
映画「日本と原発」を見てきました。
弁護士のかたが裁判官に原発事故の現実を知ってもらうためにご自分で資金を出し、
制作された映画と知ってずっと観たいと思っていました。
さすが原発知識の少ない人向けを意識して制作されたこともあり、
非常にわかりやすく、
事故の背景、被害拡大の原因などの流れが説明されており、
知りたかったことがよく分かりました。
同時に、福島原発事故はあきらかに東電と国の安全対策ミスであること、
政府が今もって収束をアピールしている理由
(原発をとりまく東電や政府、マスコミ関係者等の利益の仕組み)
などもわかりました。
私たちは生まれながら母国に、原発は安全と思わせられていた、
つまるところ騙されてきたんだという悲しい現実も実感しました。
悲しいけれど現実を知らないと前に進めない。
だからこそ、この映画は日本国民全員に観てもらいたいと思いました。
特に学校でぜひ上映してほしいですね。
この作品には日本の現実、
日本が今目指すべき方向が描かれていると思います。
大学、高校生はもちろん、
中学生でもその方向性を感じられる作品だと思いました。
SK
(2015.6.20)
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream (略称:サンドリ)は
映画「日本と原発」を勝手にすすめています。
映画を観られた避難者の皆さん、
是非ご感想をお寄せ下さい。
sandori2014@gmail.com
※タイトルに【避難者の感想】とし、
映画「日本と原発」をご覧になったご感想、
避難を余儀なくされた皆さんの思いをなど、
一言でも何文字でも文字数制限はありません。
【映画「日本と原発」をすすめ隊】係までお寄せ下さい。
頂いた感想は、ブログにアップしたり、展示会、チラシなどに掲載し、
広く世間に原子力災害の避難者の「声」を届けさせていただきます。
(掲載して良いかたちでお送りください。)
思いのある方、どうぞご協力、よろしくお願い致します。
【3.11避難者の感想】
映画「日本と原発」を見てきました。
弁護士のかたが裁判官に原発事故の現実を知ってもらうためにご自分で資金を出し、
制作された映画と知ってずっと観たいと思っていました。
さすが原発知識の少ない人向けを意識して制作されたこともあり、
非常にわかりやすく、
事故の背景、被害拡大の原因などの流れが説明されており、
知りたかったことがよく分かりました。
同時に、福島原発事故はあきらかに東電と国の安全対策ミスであること、
政府が今もって収束をアピールしている理由
(原発をとりまく東電や政府、マスコミ関係者等の利益の仕組み)
などもわかりました。
私たちは生まれながら母国に、原発は安全と思わせられていた、
つまるところ騙されてきたんだという悲しい現実も実感しました。
悲しいけれど現実を知らないと前に進めない。
だからこそ、この映画は日本国民全員に観てもらいたいと思いました。
特に学校でぜひ上映してほしいですね。
この作品には日本の現実、
日本が今目指すべき方向が描かれていると思います。
大学、高校生はもちろん、
中学生でもその方向性を感じられる作品だと思いました。
SK
(2015.6.20)
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream (略称:サンドリ)は
映画「日本と原発」を勝手にすすめています。
映画を観られた避難者の皆さん、
是非ご感想をお寄せ下さい。
sandori2014@gmail.com
※タイトルに【避難者の感想】とし、
映画「日本と原発」をご覧になったご感想、
避難を余儀なくされた皆さんの思いをなど、
一言でも何文字でも文字数制限はありません。
【映画「日本と原発」をすすめ隊】係までお寄せ下さい。
頂いた感想は、ブログにアップしたり、展示会、チラシなどに掲載し、
広く世間に原子力災害の避難者の「声」を届けさせていただきます。
(掲載して良いかたちでお送りください。)
思いのある方、どうぞご協力、よろしくお願い致します。
【募集】7月11日(土)@大阪市社協 お話しいただける避難者2名ほど募集しています。
☆3.11避難者の皆さまへ
大阪市ボランティア・市民活動センターさまより、
直近で申し訳ないのですが、
避難者の方にお話をしてくださる方を
お二人ほど探しておられるそうですので
ご協力をお願い致します。
【日程】7月11日(土)13:30~15:30
【場所】大阪市立社会福祉センター
【聞き手】Cafe IMONIKAI夏休みイベントボランティア(10名前後)
【内容】震災体験から避難に至るまで、現在の生活など
(だいたいこのような内容であれば、あとは自由にお願いします)
【話す時間】 1時間ほどを予定
話し手がお二人なら30分ずつ程度。
話し手がお1人なら1時間以内で。
※ お話の後、ボランティアのみなさんとのお話、質問時間を設けます。
【趣旨】避難者支援の理解促進+イベント企画につなげる
※ ささやかですが、謝礼金をお渡しいたします。
とのことです。
ご協力いただけます方は、
下記までご連絡ください。
なお、表題に「7月11日お話し会の件」と明記の上、
サンドリ代表アドレス sandori2014@gmail.com
までご応募ください。
大阪市ボランティア・市民活動センターさまより、
直近で申し訳ないのですが、
避難者の方にお話をしてくださる方を
お二人ほど探しておられるそうですので
ご協力をお願い致します。
【日程】7月11日(土)13:30~15:30
【場所】大阪市立社会福祉センター
【聞き手】Cafe IMONIKAI夏休みイベントボランティア(10名前後)
【内容】震災体験から避難に至るまで、現在の生活など
(だいたいこのような内容であれば、あとは自由にお願いします)
【話す時間】 1時間ほどを予定
話し手がお二人なら30分ずつ程度。
話し手がお1人なら1時間以内で。
※ お話の後、ボランティアのみなさんとのお話、質問時間を設けます。
【趣旨】避難者支援の理解促進+イベント企画につなげる
※ ささやかですが、謝礼金をお渡しいたします。
とのことです。
ご協力いただけます方は、
下記までご連絡ください。
なお、表題に「7月11日お話し会の件」と明記の上、
サンドリ代表アドレス sandori2014@gmail.com
までご応募ください。
2015/06/21 映画「日本と原発」上映会@大阪府茨木市(上映1回)
■ 2015/06/21 大阪府茨木市(上映1回)
■ 主催:原発を考える茨木市民のつどい
○ 上映日時:2015年6月21日(日) 13 時 ~
○ 会場名:立命館いばらきフューチャープラザ カンファレンスホール(大阪府茨木市岩倉町2-150)
○ 各回定員:139名
○ 問合せ先:原発を考える茨木市民のつどい (山本) TEL : 080-9755-1034
○ メール:原発を考える茨木市民のつどい(山本)宛メール
(参照)http://www.nihontogenpatsu.com/event
■ 主催:原発を考える茨木市民のつどい
○ 上映日時:2015年6月21日(日) 13 時 ~
○ 会場名:立命館いばらきフューチャープラザ カンファレンスホール(大阪府茨木市岩倉町2-150)
○ 各回定員:139名
○ 問合せ先:原発を考える茨木市民のつどい (山本) TEL : 080-9755-1034
○ メール:原発を考える茨木市民のつどい(山本)宛メール
(参照)http://www.nihontogenpatsu.com/event
7月9日(木)『避難の権利』裁判@神戸地裁(原発賠償ひょうご訴訟)


【裁判所に「声」を届け隊】よりお知らせです。
☆3.11避難者の皆さまへ
裁判期日およびそれに続く報告集会には、最も多くの避難者が集まります。
孤立している避難者の方がおられましたら、
是非お近くで行われる「避難の権利」を求める裁判の傍聴、
それに続く報告会にご参加されてみてください(どなたでも無料で傍聴可能です)。
きっと沢山の避難者されている方々とつながることができるはずです。
避難者同士はこの4年2ヶ月の間に随分とつながることが出来ました。
同じ避難元、近い境遇の方と出会えるかもしれません。
また、「避難している」という貴方の存在が、
他の避難者の励みにもなったりします。
孤立し、一人で悩んでいる避難者の方々が、
お一人でも多く、救われますように・・・。
☆すべての皆さまへ
東日本大震災とそれに伴う福島第一原子力発電所の事故の影響で、
今なお避難生活を続けている多くの人びとが、
全国47都道府県に存在しています。
(その正確な実数も実態も誰も把握はしていませんが。)
関西に避難している人たちが、
なぜ避難生活を続けているのか、
その真実の声を、裁判所にも届けています。
是非、宣誓し、真実を包み隠さず、
正々堂々と司法の場で
避難者の「声」を伝える避難者のご支援も、
どうぞよろしくお願い申し上げます。
(もちろん裁判だけが唯一の伝える方法ではありません。)
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream
【裁判所に「声」を届け隊】一同
連絡先 sandori2014@gmail.com
6月20日(土)KANSAIサポーターズ主催 訴訟学習会のご案内@大阪弁護士会館
………… 訴訟学習会のご案内…………
KANSAIサポーターズでは、毎月第3土曜日に訴訟学習会を開催しています。
弁護団の先生方の資料を使い、数回にわたり、勉強会を開催してきました。
原告の方々も参加されるようになり、
これまでの集団訴訟なども知る事もできました。
心に響き、考える事も多々あります。
今回は、
原子力災害対策本部「原子力災害からの福島復興の加速に向けて」改訂(案)を読んでみる、
です。
2017年3月に帰還困難区域以外の避難指示を解除することを含む内容が
6月12日に閣議決定されました。
これは避難者に限らず、東電原発事故被害者全員に係わる重要な方針決定だと思います。
この閣議決定により、事故被害者の生活がどのように変わるのか、
その内容を読み込むことで理解の手助けにしたいと思います。
原告の方や避難者、裁判を応援するサポーターの方であれば参加できます。
是非、ご参加ください。
■日時■
2015年6月20日(土) 13時~14時
■場所■
大阪弁護士会館
904 号室
大阪市北区西天満1-12-5
■参加費■
原告の方々や避難者の方 無料
サポーター(テキスト代として) 200円
■ご予約・お問合せ■
kansaisapo@gmail.com
上記に参加者される方の氏名をお書きの上、お申込みください。
当日の連絡先 → 090-8191-7027(久一)
■今回の内容■
「原子力災害からの福島復興の加速に向けて」(6月12日閣議決定)
担当:青木先生、島村先生
(詳細)
http://kansapo.jugem.jp/
☆3.11避難者の皆さまへ
関西方面へ避難をした避難者の方で、
「避難の権利」を求める裁判にご興味・ご関心のある方、
この裁判を応援したいなと思われる方は、
KANSAIサポーターズに登録をお薦めします。
(サポーターズ登録は無料で、
応援してくださる方であればどなたでもご登録可能です。
「避難の権利」関連の裁判に関する情報がタイムリーに流れてきますので
避難者の方やそのご家族、ご支援の方にはオススメです。)
川柳『避難者あるある575』が届いてます♪まだまだ募集中!
たくさんの川柳届いてます!
投稿してくださった方ありがとうございます!!
一部ご紹介いたしま~す♪
安全論 まだらに人を 染めていき
ペンネーム:日本に絶望さん
待ってます アンケートより 聞き取りを
ペンネーム:M.A
地元から 届く悲鳴に すべもなく
ペンネーム:J.T
避難者の 自立を阻む 体調不良
ペンネーム:症状ありさん
母子避難 健康取るか パパ取るか
ペンネーム:けっこう切実です
まだまだ募集中です。
お気軽に投稿してくださいね(^^)
こちらのフォームから受付ています。
(コチラをクリックしたらフォーム画面になります。)
↓↓↓
避難者あるある575へ投稿する!
※お名前・メールアドレス・ペンネーム・575を書いて確認を押してくださいね!
なお、投稿された内容は「575」と「ペンネーム」のみを公開いたします。
お名前は厳重にこちらで管理させていただきます。
投稿してくださった方ありがとうございます!!
一部ご紹介いたしま~す♪
安全論 まだらに人を 染めていき
ペンネーム:日本に絶望さん
待ってます アンケートより 聞き取りを
ペンネーム:M.A
地元から 届く悲鳴に すべもなく
ペンネーム:J.T
避難者の 自立を阻む 体調不良
ペンネーム:症状ありさん
母子避難 健康取るか パパ取るか
ペンネーム:けっこう切実です
まだまだ募集中です。
お気軽に投稿してくださいね(^^)
こちらのフォームから受付ています。
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“We need help from the world community” “世界のみなさん,助けてください”
“We need help from the world community”
“世界のみなさん,助けてください”
Akiko Morimatsu Speech for the UN Disaster Prevention Convention March 15, 2015 Sendai City, Japan
国連防災世界会議における森松明希子スピーチ
2015年3月15日
仙台市,日本
Ladies and gentlemen,
1. I would like to express my personal gratitude for the worldwide support
given to us on this occasion. East Japan suffered catastrophic damage by
the Great East Japan Earthquake and the consequent accident at the
Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant owned by Tokyo Electric Company
on March 11, 2011. Immediately after the disasters occurred, people all over the
world sent kind messages as well as necessary commodities for survival, thus
helping us both mentally and materially. I thank you all sincerely for the kindness.
1.全世界の皆様のご支援に、この場をお借りして、感謝を申し上げます。
2011年3月11日に東日本大震災およびそれに伴う東京電力福島第一原子力発電所の事故により東日本は壊滅的なダメージを受けました。発災直後から全世界の人々が私たち日本にいる人々の無事を祈り、必要な支援の手を差し伸べて下さり、物心両面でお支え下さいました事を、心から御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
2. However, the Japanese government has never been able to put the nuclear power
plants under control since the 3.11 accident. The plants have contaminated the ocean,
the air, and lands which are, without boundaries, connected throughout the world.
The TEPCO's Fukushima Daiichi nuclear power plant accident has never been put
under control and I personally think we must apologize for this fact to the people
of the world. The contaminated water has kept leaking and polluting the ocean for
four years and no Japanese citizens think Fukushima is under control. It is a shame that
we have not apologized to the world for the fact. I, therefore, would like to apologize
personally now to all the people in the world on this occasion. I am very sorry that
Japan has kept contaminating the beautiful earth.
2.一方で、我が国は、原子力発電所の事故を未だに収束させる事ができず、世界につながる海、空気、そして陸地を汚染し続けています。
東電福島第一原発事故はコントロールされておらず、この事を全世界の人々に陳謝しなければならないと私は思っています。汚染水は漏れ続け、4年が経過した現在もなお、海洋を汚染し続けているという現実に、誰一人国民は「アンダー・コントロール」などとは思っておりませんが、きちんと世界に向かって謝罪をしていません。大変お恥ずかしいことです。この場をお借りして、謝ります。全世界の皆様、美しい地球を汚し続けて本当にごめんなさい。
3. Now in Japan, many people have evacuated the contaminated areas to avoid
radiation exposure. The number of registered evacuees in June 2012 reached
347,000 according to the government's Reconstruction Agency. Moreover,
many people have stayed in the contaminated areas due to the lack of the
government's financial support. Most evacuees are families with little children
who are vulnerable to radiation. My own case is one of them.
Our two children were a three-year-old infant and a five-month-old baby at the
time of the disaster. Since the nuclear accident, my husband who is the father of
the children, has stayed in Fukushima but our children and I fled to Osaka. We
are dislocated and forced to live in two separate locations. Such dislocation to
protect children is called, boshi hinan, or "mother and child(ren) evacuees" and
there are still many of us.
3.多くの日本に住む人々が汚染地から放射線を避けて避難を続けている現状があります。政府(復興庁)に登録した避難者は2012年6月に約347,000人に達しました。また,避難を希望していても政府からの支援がないため,避難できない人々が多数存在しています。
特に放射線に対して脆弱な子供を守るための避難者があり、私たちもその中の1家族です。私には2人の子どもがいます。震災当時、ゼロ歳(5ヶ月)の赤ん坊と3歳の幼児でした。この4年間、私の夫(子どもたちの父親)は福島に、私と子どもたちは大阪に、2カ所に離ればなれに住んでいます。このように子どもを守る為の母子だけの避難者が現在も多数存在します。日本では「母子避難」と呼ばれています。
4. We need to protect ourselves from the radiation contamination which has leaked from
TEPCO's Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant. Evacuation is a natural human act
to flee from radiation and to enjoy healthy living. I regard the nuclear evacuees like
ourselves as people of "Internal Displacement" referred to in the Guiding Principle on
Internal Displacement in the 1998 UN Human Right Commission Report.
The second article of the above principle states: "Certain internally displaced persons,
such as children, especially unaccompanied minors, expectant mother, mothers with young
children, female heads of household, persons with disabilities and elderly persons, shall be
entitiled to protectopm and assistance required by their condition and to treatment which
takes into account their special needs." The Japanese government, however, has not put this
principle into action nor its policies for the internally displaced people due to the nuclear
accidents. The Japanese government has not learned lessons of the social protection of
victims from Chernobyl nuclear accident.
4.私たちは東電福島第一原子力発電所から漏れ出た放射能汚染から身を守る必要があります。そして、「避難すること」は被曝から免れ健康を享受するための人として当然の命を守る為の行為です。
私たちのような人々は、国連の 「国内強制移動に関する指導原則」における「国内避難民」に該当すると考えます。
同原則の原則4 第2項 には、「児童、妊娠中の母親、幼い児童を持つ母親、女性世帯主、障がいのある者および高齢者等一部の国内避難民は、自らの状態が必要とする保護および援助ならびに自らの特別の必要を考慮した待遇を受ける権利を有する。」とあります。
しかし、日本の政府が同原則を積極的に具体的施策の実施のなかに取り入れ、原子力災害による国内避難民に対して適切な対処をしているとはおよそいえない現状が続いています。
5. Moreover, the Japanese government has objected and rejected the UN Special
Rapporteur Anand Grover's advice given in 2013.
5.また、日本政府は、国連特別報告者アナンド・グローバー氏の日本政府への勧告(2013年)に対しては正式に反論し,受け入れを拒否しています。
6. In other words, rights pertaining to human life and health have been continuously
violated by the Japanense government since 3.11. Human beings have had the historical
experience of the nuclear accident in Chernobyl in the former Soviet Union and have had
many witnesses from Chernobyl mothers. The Japanese government, however, has not
learned the lessons from "the social protection of victims" in the Chernobyl nuclear
accident. By the government ignoring the lessons, many people in Fukushima and other
contaminated areas in Japan are still forced to have unnecessary radiation exposure today.
6.人類史上、旧ソ連でチェルノブイリ原子力発電所の事故を人類は経験し、チェルノブイリのお母さんたちが声を上げ、数々の証言を残してくれました。
日本政府は,チェルノブイリ原発事故における被害者の社会的保護を教訓にしていません。その教訓を、何ら活かすことなく、福島をはじめ、日本の汚染された地域に住む子どもを含む人々は、今なお、無用の被曝を強いられています。すなわち、人の命や健康に直接関わる権利が3.11の震災以降、日本政府によって侵害され続けているのです。
7. I would like to protect life, health, and the future of the children living in Japan. Without
evacuating from nuclear contaminated areas or ensured regular recuperation opportunities,
we cannot follow the 24th article of the Convention of the Rights of the Child, which Japan
has ratified, "the right to enjoy the highest level of health reachable." We need help from
the world community.
7.私は、命や健康、そして日本に暮らす子どもたちの未来を守りたいのです。
放射能汚染地域から避難の権利、もしくは定期的な保養の権利を保障しなければ、日本が批准している「子どもの権利条約」第24条の「到達可能な最高水準の健康を享受する」権利も護ることができません。
8. The Preamble of the Japanese Constitution declares "the right to live free from fear and
deprivation and to live in peace" (right to peaceful life).
8.日本国憲法の前文には、「 全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」(平和的生存権)という規定があります。
9. The right to live free from the fear of radiation exposure and to live in peace should be
given equally to all people. We cannot make any more "hibakushas" if we have learned
the lessons from Hiroshima, Nagasaki and Fukushima.
9.放射線被曝の恐怖から免れ、平和のうちに生存する権利は、誰にでも等しく与えられるべきです。広島・長崎、そして福島を経験し、私たち日本人はもうこれ以上誰ひとりとして「ヒバクシャ」をつくり出してはいけないと気づくべきです。
10. To be free from radiation exposure and to enjoy health is a basic human reaction to
protect life. It is a human right directly concerning to human life and health. It is the most
important and universal human right. Can you think of anything else which is more
precious than human life?
10.放射線被曝から免れ健康を享受するということは、命を守るための原則的行為です。人の命や健康に直接関わる権利であり、最も大切で、普遍的な基本的人権だと思うのです。人の命よりも大切にされなければならないものはありますか?
11. We need help from the world community to help all the victims and evacuees of nuclear
accident disasters. Please take action and tell the Japanese government to act in compliance
with international laws, and respect the guiding principles and recommendations of the
United Nations.
Please help us protect the people, especially the children, in Fukushima and East Japan
from radiation exposure.
11.全世界の皆さん、原子力災害の全ての被害者と避難者をどうか助けてください。
日本政府に対し,国際法を遵守し、国連の指導原則や勧告を尊重するように働きかけてください。
世界の皆さん、どうか助けて下さい。福島と東日本の人々、特に子どもたちを被曝から守ってください。
ご清聴、ありがとうございました。
Akiko Morimatsu
Thanks & Dream, The Great East Japan Earthquake Disaster Evacuees Association
森松明希子
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream
http://sandori2014.blog.fc2.com/
Email: sandori2014@gmail.com
(English translation by Yoko Chase, Ph.D.)
http://sandori2014.blog.fc2.com/blog-entry-172.html
“世界のみなさん,助けてください”
Akiko Morimatsu Speech for the UN Disaster Prevention Convention March 15, 2015 Sendai City, Japan
国連防災世界会議における森松明希子スピーチ
2015年3月15日
仙台市,日本
Ladies and gentlemen,
1. I would like to express my personal gratitude for the worldwide support
given to us on this occasion. East Japan suffered catastrophic damage by
the Great East Japan Earthquake and the consequent accident at the
Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant owned by Tokyo Electric Company
on March 11, 2011. Immediately after the disasters occurred, people all over the
world sent kind messages as well as necessary commodities for survival, thus
helping us both mentally and materially. I thank you all sincerely for the kindness.
1.全世界の皆様のご支援に、この場をお借りして、感謝を申し上げます。
2011年3月11日に東日本大震災およびそれに伴う東京電力福島第一原子力発電所の事故により東日本は壊滅的なダメージを受けました。発災直後から全世界の人々が私たち日本にいる人々の無事を祈り、必要な支援の手を差し伸べて下さり、物心両面でお支え下さいました事を、心から御礼申し上げます。本当にありがとうございました。
2. However, the Japanese government has never been able to put the nuclear power
plants under control since the 3.11 accident. The plants have contaminated the ocean,
the air, and lands which are, without boundaries, connected throughout the world.
The TEPCO's Fukushima Daiichi nuclear power plant accident has never been put
under control and I personally think we must apologize for this fact to the people
of the world. The contaminated water has kept leaking and polluting the ocean for
four years and no Japanese citizens think Fukushima is under control. It is a shame that
we have not apologized to the world for the fact. I, therefore, would like to apologize
personally now to all the people in the world on this occasion. I am very sorry that
Japan has kept contaminating the beautiful earth.
2.一方で、我が国は、原子力発電所の事故を未だに収束させる事ができず、世界につながる海、空気、そして陸地を汚染し続けています。
東電福島第一原発事故はコントロールされておらず、この事を全世界の人々に陳謝しなければならないと私は思っています。汚染水は漏れ続け、4年が経過した現在もなお、海洋を汚染し続けているという現実に、誰一人国民は「アンダー・コントロール」などとは思っておりませんが、きちんと世界に向かって謝罪をしていません。大変お恥ずかしいことです。この場をお借りして、謝ります。全世界の皆様、美しい地球を汚し続けて本当にごめんなさい。
3. Now in Japan, many people have evacuated the contaminated areas to avoid
radiation exposure. The number of registered evacuees in June 2012 reached
347,000 according to the government's Reconstruction Agency. Moreover,
many people have stayed in the contaminated areas due to the lack of the
government's financial support. Most evacuees are families with little children
who are vulnerable to radiation. My own case is one of them.
Our two children were a three-year-old infant and a five-month-old baby at the
time of the disaster. Since the nuclear accident, my husband who is the father of
the children, has stayed in Fukushima but our children and I fled to Osaka. We
are dislocated and forced to live in two separate locations. Such dislocation to
protect children is called, boshi hinan, or "mother and child(ren) evacuees" and
there are still many of us.
3.多くの日本に住む人々が汚染地から放射線を避けて避難を続けている現状があります。政府(復興庁)に登録した避難者は2012年6月に約347,000人に達しました。また,避難を希望していても政府からの支援がないため,避難できない人々が多数存在しています。
特に放射線に対して脆弱な子供を守るための避難者があり、私たちもその中の1家族です。私には2人の子どもがいます。震災当時、ゼロ歳(5ヶ月)の赤ん坊と3歳の幼児でした。この4年間、私の夫(子どもたちの父親)は福島に、私と子どもたちは大阪に、2カ所に離ればなれに住んでいます。このように子どもを守る為の母子だけの避難者が現在も多数存在します。日本では「母子避難」と呼ばれています。
4. We need to protect ourselves from the radiation contamination which has leaked from
TEPCO's Fukushima Daiichi Nuclear Power Plant. Evacuation is a natural human act
to flee from radiation and to enjoy healthy living. I regard the nuclear evacuees like
ourselves as people of "Internal Displacement" referred to in the Guiding Principle on
Internal Displacement in the 1998 UN Human Right Commission Report.
The second article of the above principle states: "Certain internally displaced persons,
such as children, especially unaccompanied minors, expectant mother, mothers with young
children, female heads of household, persons with disabilities and elderly persons, shall be
entitiled to protectopm and assistance required by their condition and to treatment which
takes into account their special needs." The Japanese government, however, has not put this
principle into action nor its policies for the internally displaced people due to the nuclear
accidents. The Japanese government has not learned lessons of the social protection of
victims from Chernobyl nuclear accident.
4.私たちは東電福島第一原子力発電所から漏れ出た放射能汚染から身を守る必要があります。そして、「避難すること」は被曝から免れ健康を享受するための人として当然の命を守る為の行為です。
私たちのような人々は、国連の 「国内強制移動に関する指導原則」における「国内避難民」に該当すると考えます。
同原則の原則4 第2項 には、「児童、妊娠中の母親、幼い児童を持つ母親、女性世帯主、障がいのある者および高齢者等一部の国内避難民は、自らの状態が必要とする保護および援助ならびに自らの特別の必要を考慮した待遇を受ける権利を有する。」とあります。
しかし、日本の政府が同原則を積極的に具体的施策の実施のなかに取り入れ、原子力災害による国内避難民に対して適切な対処をしているとはおよそいえない現状が続いています。
5. Moreover, the Japanese government has objected and rejected the UN Special
Rapporteur Anand Grover's advice given in 2013.
5.また、日本政府は、国連特別報告者アナンド・グローバー氏の日本政府への勧告(2013年)に対しては正式に反論し,受け入れを拒否しています。
6. In other words, rights pertaining to human life and health have been continuously
violated by the Japanense government since 3.11. Human beings have had the historical
experience of the nuclear accident in Chernobyl in the former Soviet Union and have had
many witnesses from Chernobyl mothers. The Japanese government, however, has not
learned the lessons from "the social protection of victims" in the Chernobyl nuclear
accident. By the government ignoring the lessons, many people in Fukushima and other
contaminated areas in Japan are still forced to have unnecessary radiation exposure today.
6.人類史上、旧ソ連でチェルノブイリ原子力発電所の事故を人類は経験し、チェルノブイリのお母さんたちが声を上げ、数々の証言を残してくれました。
日本政府は,チェルノブイリ原発事故における被害者の社会的保護を教訓にしていません。その教訓を、何ら活かすことなく、福島をはじめ、日本の汚染された地域に住む子どもを含む人々は、今なお、無用の被曝を強いられています。すなわち、人の命や健康に直接関わる権利が3.11の震災以降、日本政府によって侵害され続けているのです。
7. I would like to protect life, health, and the future of the children living in Japan. Without
evacuating from nuclear contaminated areas or ensured regular recuperation opportunities,
we cannot follow the 24th article of the Convention of the Rights of the Child, which Japan
has ratified, "the right to enjoy the highest level of health reachable." We need help from
the world community.
7.私は、命や健康、そして日本に暮らす子どもたちの未来を守りたいのです。
放射能汚染地域から避難の権利、もしくは定期的な保養の権利を保障しなければ、日本が批准している「子どもの権利条約」第24条の「到達可能な最高水準の健康を享受する」権利も護ることができません。
8. The Preamble of the Japanese Constitution declares "the right to live free from fear and
deprivation and to live in peace" (right to peaceful life).
8.日本国憲法の前文には、「 全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」(平和的生存権)という規定があります。
9. The right to live free from the fear of radiation exposure and to live in peace should be
given equally to all people. We cannot make any more "hibakushas" if we have learned
the lessons from Hiroshima, Nagasaki and Fukushima.
9.放射線被曝の恐怖から免れ、平和のうちに生存する権利は、誰にでも等しく与えられるべきです。広島・長崎、そして福島を経験し、私たち日本人はもうこれ以上誰ひとりとして「ヒバクシャ」をつくり出してはいけないと気づくべきです。
10. To be free from radiation exposure and to enjoy health is a basic human reaction to
protect life. It is a human right directly concerning to human life and health. It is the most
important and universal human right. Can you think of anything else which is more
precious than human life?
10.放射線被曝から免れ健康を享受するということは、命を守るための原則的行為です。人の命や健康に直接関わる権利であり、最も大切で、普遍的な基本的人権だと思うのです。人の命よりも大切にされなければならないものはありますか?
11. We need help from the world community to help all the victims and evacuees of nuclear
accident disasters. Please take action and tell the Japanese government to act in compliance
with international laws, and respect the guiding principles and recommendations of the
United Nations.
Please help us protect the people, especially the children, in Fukushima and East Japan
from radiation exposure.
11.全世界の皆さん、原子力災害の全ての被害者と避難者をどうか助けてください。
日本政府に対し,国際法を遵守し、国連の指導原則や勧告を尊重するように働きかけてください。
世界の皆さん、どうか助けて下さい。福島と東日本の人々、特に子どもたちを被曝から守ってください。
ご清聴、ありがとうございました。
Akiko Morimatsu
Thanks & Dream, The Great East Japan Earthquake Disaster Evacuees Association
森松明希子
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream
http://sandori2014.blog.fc2.com/
Email: sandori2014@gmail.com
(English translation by Yoko Chase, Ph.D.)
http://sandori2014.blog.fc2.com/blog-entry-172.html
【報告】5/30司法修習生シンポジウム@京都教育文化センター
主催・実行委員の第68期司法修習生の幸裕子さま
(当日はシンポジウムの司会も務められていた方です)より、
シンポジウムのご報告レポートを頂きましたので掲載致します。
5月30日土曜日、ここ数ヶ月企画してきたシンポジウム、
「私たちと原発〜風化させない決意を込めて」を無事とりおこなうことができました。

第1部は映画「日本と原発」の上映でした。
こちらは原発差止訴訟などで闘ってきた河合弘之弁護士と海渡雄一弁護士が制作したドキュメンタリー映画。
原発問題の全体像をわかりやすくまとめた上、被災者個人へのインタヴューや現地取材が多く盛り込まれ、具体的な被害の実相が伝わるようになっています。
被災した方それぞれにとっての福島原発事故の被害が映し出されていたのが、とても印象的でした。
第2部は、長年原子力と闘ってきて、あの大飯原発再稼働差止判決や、つい先日でた高浜原発運転差止仮処分決定を勝ち取った海渡雄一先生と、
福島県郡山市から、原発事故の2か月後に当時3歳と0歳だったお子さんを連れて母子で大阪へ自主避難し、
国と東電を相手に損害賠償請求訴訟を提起して原告団代表をしている森松明希子さんにお話してもらいました。
【海渡先生のお話】
海渡先生は、差止判決や仮処分について、原子力規制行政がいかに緩んでここまできたか、原発事故直後の国の対応のまずさによって、原発周辺の市民が、本来ならば防げたはずの被曝を強いられたこと、原発労働の問題点、これまでの原発労災訴訟などなどさまざまなことをお話してくれました。
海渡先生は、高浜原発運転差止仮処分決定が新規制基準について述べた部分を引用して紹介されました。
「多重防護とは堅固な第一陣が突破されたとしてもなお第二陣、第三陣が控えているという備えの在り方を指すと解されるのであって、第一陣の備えが貧弱のため、いきなり背水の陣となるような備えの在り方は多重防護の意義からはずれるものと思われる。」
端的に新規制基準、ひいては原発規制行政のまずさが表現されている名文です。
先生は講演の最後に、まずは原発問題の知識を持つこと、第2に福島で起きた被害を肌感覚で知り、繰り返してはならないと心で感じること、第3に社会は必ず原発をやめられるという確信を持つことだとおっしゃいました。
ずっと原発問題に取り組んできた海渡先生の言葉は、力強く、説得力があり、非常に勇気づけられるものでした。
【森松明希子さんのお話】
二人目の講師、森松さんは、一つ、震災当時のことで、今でも思い出したくないとてもつらかったことを、私たちに話してくれました。
震災後、郡山の避難所で不安になりながら身動きとれず暮らしていたときのこと。
森松さんは、かじりつくように毎日見ていたテレビのニュースで、
「東京の金町浄水場の水からセシウムが検出されました」との報道を見ます。
瞬間、「金町浄水場が汚染されているならば、郡山の水道水が汚染されていないはずがない」。そう思いました。
死ぬほど不安な中、危険はニュースで知らせてもらえるはずだと自分に言い聞かせるように暮らしているのに、
「福島の水道水が汚染されたというニュースが無い中で、飛び越えて東京?」
そうも思いました。
そのNHKニュースは、続けてこう言ったそうです。
「念のため、乳幼児には飲ませないようにしてください」。
震災で自宅が断水し、避難所で水道が使えるありがたみを実感した矢先の出来事。
ライフラインは全て止まり、商店も全て閉まり、品物もなく、ミネラルウォーターなど手に入らず、乳幼児がいるからと配給されるわけでもなかった。
森松さんがつらかったのは、明らかに放射性物質で汚染されているとわかっている水道水を、「喉乾いたー」という当時3歳の子どもに、手渡して飲ませなければならなかったこと。
5ヶ月の赤ちゃんがいて、自分の母乳しか与えられるものがない中で、汚染された水を飲まなければならなかったこと。
よく、「母子だけで大阪なんて遠くまで、大変でしょう、どんなに辛いでしょう」と言われることがある。
でも、自分の手で汚染された水を子どもに飲ませなければならなかったことに比べれば、全然たいしたことない、と。
母親は、子どもに少しでもいいものを与えたいと思うし、悪いものは与えたくないと思う。
それが普通の母親というものだ、と。
そういう母親というものにとって、原発事故が日常にもたらす被害は、深刻かつ残酷で、とても受け入れられないのだ、というお話でした。
私にはまだ子どもがいないですが、それでも痛いほど気持ちが伝わってきて、涙なしには聞けませんでした。
私のお母さんは家族のことに一生懸命な人で、私は小さい頃から本当に手をかけて育ててもらったのですが、森松さんのお話をきいていたら、昔のお母さんとまだ小さい自分の姿が頭にうかびました。
放射性物質が確実に入っている水を子どもに手渡さなければならないときの母親の気持ち。それはまさに断腸の思いだろうと思いました。
来場者の感想を聞くと、「水の話が一番印象的だった」という声がとても多かったです。

このプレ企画で、企画側である私も、たくさんの新しい知識を得ることができ、また、海渡先生・森松さんという2人の講師の方から、あらためて、この問題を考え続け、自分にできることを行動し続けようという決意と勇気をいただきました。
お二人とも大変ご多忙である中、当企画の講師を引き受けてくださり、本当にありがとうございました。
そして企画の実現にさまざまな形で協力してくださった脱原発弁護団の先生方、原発賠償関西訴訟弁護団の先生方、関西サポーターズの方々、遠方から来てくださった皆様に、この場を借りて心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。
最後に、当日の運営も含め、一緒に企画をつくりあげた7月集会実行委員のみなさま、大変お疲れ様でした!
7月集会も成功させましょう!

(当日はシンポジウムの司会も務められていた方です)より、
シンポジウムのご報告レポートを頂きましたので掲載致します。
5月30日土曜日、ここ数ヶ月企画してきたシンポジウム、
「私たちと原発〜風化させない決意を込めて」を無事とりおこなうことができました。

第1部は映画「日本と原発」の上映でした。
こちらは原発差止訴訟などで闘ってきた河合弘之弁護士と海渡雄一弁護士が制作したドキュメンタリー映画。
原発問題の全体像をわかりやすくまとめた上、被災者個人へのインタヴューや現地取材が多く盛り込まれ、具体的な被害の実相が伝わるようになっています。
被災した方それぞれにとっての福島原発事故の被害が映し出されていたのが、とても印象的でした。
第2部は、長年原子力と闘ってきて、あの大飯原発再稼働差止判決や、つい先日でた高浜原発運転差止仮処分決定を勝ち取った海渡雄一先生と、
福島県郡山市から、原発事故の2か月後に当時3歳と0歳だったお子さんを連れて母子で大阪へ自主避難し、
国と東電を相手に損害賠償請求訴訟を提起して原告団代表をしている森松明希子さんにお話してもらいました。
【海渡先生のお話】
海渡先生は、差止判決や仮処分について、原子力規制行政がいかに緩んでここまできたか、原発事故直後の国の対応のまずさによって、原発周辺の市民が、本来ならば防げたはずの被曝を強いられたこと、原発労働の問題点、これまでの原発労災訴訟などなどさまざまなことをお話してくれました。
海渡先生は、高浜原発運転差止仮処分決定が新規制基準について述べた部分を引用して紹介されました。
「多重防護とは堅固な第一陣が突破されたとしてもなお第二陣、第三陣が控えているという備えの在り方を指すと解されるのであって、第一陣の備えが貧弱のため、いきなり背水の陣となるような備えの在り方は多重防護の意義からはずれるものと思われる。」
端的に新規制基準、ひいては原発規制行政のまずさが表現されている名文です。
先生は講演の最後に、まずは原発問題の知識を持つこと、第2に福島で起きた被害を肌感覚で知り、繰り返してはならないと心で感じること、第3に社会は必ず原発をやめられるという確信を持つことだとおっしゃいました。
ずっと原発問題に取り組んできた海渡先生の言葉は、力強く、説得力があり、非常に勇気づけられるものでした。
【森松明希子さんのお話】
二人目の講師、森松さんは、一つ、震災当時のことで、今でも思い出したくないとてもつらかったことを、私たちに話してくれました。
震災後、郡山の避難所で不安になりながら身動きとれず暮らしていたときのこと。
森松さんは、かじりつくように毎日見ていたテレビのニュースで、
「東京の金町浄水場の水からセシウムが検出されました」との報道を見ます。
瞬間、「金町浄水場が汚染されているならば、郡山の水道水が汚染されていないはずがない」。そう思いました。
死ぬほど不安な中、危険はニュースで知らせてもらえるはずだと自分に言い聞かせるように暮らしているのに、
「福島の水道水が汚染されたというニュースが無い中で、飛び越えて東京?」
そうも思いました。
そのNHKニュースは、続けてこう言ったそうです。
「念のため、乳幼児には飲ませないようにしてください」。
震災で自宅が断水し、避難所で水道が使えるありがたみを実感した矢先の出来事。
ライフラインは全て止まり、商店も全て閉まり、品物もなく、ミネラルウォーターなど手に入らず、乳幼児がいるからと配給されるわけでもなかった。
森松さんがつらかったのは、明らかに放射性物質で汚染されているとわかっている水道水を、「喉乾いたー」という当時3歳の子どもに、手渡して飲ませなければならなかったこと。
5ヶ月の赤ちゃんがいて、自分の母乳しか与えられるものがない中で、汚染された水を飲まなければならなかったこと。
よく、「母子だけで大阪なんて遠くまで、大変でしょう、どんなに辛いでしょう」と言われることがある。
でも、自分の手で汚染された水を子どもに飲ませなければならなかったことに比べれば、全然たいしたことない、と。
母親は、子どもに少しでもいいものを与えたいと思うし、悪いものは与えたくないと思う。
それが普通の母親というものだ、と。
そういう母親というものにとって、原発事故が日常にもたらす被害は、深刻かつ残酷で、とても受け入れられないのだ、というお話でした。
私にはまだ子どもがいないですが、それでも痛いほど気持ちが伝わってきて、涙なしには聞けませんでした。
私のお母さんは家族のことに一生懸命な人で、私は小さい頃から本当に手をかけて育ててもらったのですが、森松さんのお話をきいていたら、昔のお母さんとまだ小さい自分の姿が頭にうかびました。
放射性物質が確実に入っている水を子どもに手渡さなければならないときの母親の気持ち。それはまさに断腸の思いだろうと思いました。
来場者の感想を聞くと、「水の話が一番印象的だった」という声がとても多かったです。

このプレ企画で、企画側である私も、たくさんの新しい知識を得ることができ、また、海渡先生・森松さんという2人の講師の方から、あらためて、この問題を考え続け、自分にできることを行動し続けようという決意と勇気をいただきました。
お二人とも大変ご多忙である中、当企画の講師を引き受けてくださり、本当にありがとうございました。
そして企画の実現にさまざまな形で協力してくださった脱原発弁護団の先生方、原発賠償関西訴訟弁護団の先生方、関西サポーターズの方々、遠方から来てくださった皆様に、この場を借りて心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。
最後に、当日の運営も含め、一緒に企画をつくりあげた7月集会実行委員のみなさま、大変お疲れ様でした!
7月集会も成功させましょう!

避難サポートひょうご交流会準備会の会議に参加しました。
6月11日(木)避難サポートひょうご交流会準備会の会議に出席しました。
今回は福島・関東→兵庫に避難した2名で参加させていただきました。
ホッとネットおおさかの避難者交流会にも参加していたので、
避難当事者として、良かった点、アイデアなど
ご一緒に考えさせていただきました。
ネタバレしてはいけませんので、
写真はあえてぼかしております^^;

(避難サポートひょうご交流会準備会の会議 2015.6.11)
4年経ってもなお、
こうして3.11避難者のために、心を尽くしてくださる
サポート兵庫の皆さまに
心から感謝を申し上げたいと思います。
今回は福島・関東→兵庫に避難した2名で参加させていただきました。
ホッとネットおおさかの避難者交流会にも参加していたので、
避難当事者として、良かった点、アイデアなど
ご一緒に考えさせていただきました。
ネタバレしてはいけませんので、
写真はあえてぼかしております^^;

(避難サポートひょうご交流会準備会の会議 2015.6.11)
4年経ってもなお、
こうして3.11避難者のために、心を尽くしてくださる
サポート兵庫の皆さまに
心から感謝を申し上げたいと思います。
7月12日(日)〜避難者ピアサポートの会〜 平成27年度 京都避難者交流会vol.1@ウイングス京都
三ヶ月間スタッフの事情でお休みしていましたが、
7月は場所をひとまち交流館からウイングス京都に変えて
開催されるそうです。
京都以外の避難者でもおいでくださいとのことです(^^)
〜避難者ピアサポートの会より〜
【平成27年度 京都避難者交流会vol.1】
東日本大震災と原発事故から四年以上が経過。様々な支援は徐々に打ち切られ、人々の意識も風化の一途をたどる中、今も避難する人が続いています。
同じ避難を選択した者同士
つながり、時には絶望を共有し、時には知恵を出し合い
避難生活を生き抜きましょう!
とき
平成27年7月12日(土)10:00〜12:00
ところ
ウイングス京都4階
第8会議室
(京都市中京区東洞院通六角下ル御射山町262
電話075‐212‐7470)地下鉄烏丸線四条駅または阪急烏丸駅徒歩五分
ファシリテーター
本多利子先生
参加費
無料
別室保育あり(一才から)
定員6名
申し込み・問い合わせ先
アドレス:kyoto.hinan@gmail.com
お名前と避難元→避難先をお伝えください。
保育希望の方は、7月5日までにお子様のお名前と年齢を添えて、お申し込みください。
赤ちゃん連れの方は、同室でよろしければおいでください。
主催
ドーン避難者ピアサポートの会京都
京都新聞福祉活動支援助成
7月は場所をひとまち交流館からウイングス京都に変えて
開催されるそうです。
京都以外の避難者でもおいでくださいとのことです(^^)
〜避難者ピアサポートの会より〜
【平成27年度 京都避難者交流会vol.1】
東日本大震災と原発事故から四年以上が経過。様々な支援は徐々に打ち切られ、人々の意識も風化の一途をたどる中、今も避難する人が続いています。
同じ避難を選択した者同士
つながり、時には絶望を共有し、時には知恵を出し合い
避難生活を生き抜きましょう!
とき
平成27年7月12日(土)10:00〜12:00
ところ
ウイングス京都4階
第8会議室
(京都市中京区東洞院通六角下ル御射山町262
電話075‐212‐7470)地下鉄烏丸線四条駅または阪急烏丸駅徒歩五分
ファシリテーター
本多利子先生
参加費
無料
別室保育あり(一才から)
定員6名
申し込み・問い合わせ先
アドレス:kyoto.hinan@gmail.com
お名前と避難元→避難先をお伝えください。
保育希望の方は、7月5日までにお子様のお名前と年齢を添えて、お申し込みください。
赤ちゃん連れの方は、同室でよろしければおいでください。
主催
ドーン避難者ピアサポートの会京都
京都新聞福祉活動支援助成
6月28日(日)東日本大震災復興支援・さよなら原発第7回北千里駅前 チャリティーフェスタに出店決定!
6月28日(日) 午前11時より
サンドリブース出店いたします。
※3.11避難者トークもあります!
↓↓↓


日時:6月28日(日) 午前11時より午後16時
場所:dios北千里 「出逢いの広場」(田村書店前の周辺)
北千里駅(〒565-0874 吹田市古江台4丁目2)
主 催:東日本大震災復興支援・さよなら原発第7回北千里駅前 チャリティーフェスタ実行委員会
書籍・DVD・避難者さんの手作り品など販売いたします~♪
スペースに余裕があれば、フリマ(子供の洋服)もします。
お祭りのような楽しそうなチャリティーフェスタ(^^♪
子供も楽しめる企画があるようなので、
親子で楽しみたいと思っております。
是非、親子連れの方も遊びに来てください~。
サンドリのお隣は、サンドリでも「羊毛ひつじ」を販売させていただいてますが、
そのひつじの先生「ひつじの惑星」のブースです。
食べ物もおいしそうです!(^^)!
お手伝いしてくださる方も大歓迎です!
皆さん来てくださいね!!
(参照)
https://www.facebook.com/events/102600776747227/
サンドリブース出店いたします。
※3.11避難者トークもあります!
↓↓↓


日時:6月28日(日) 午前11時より午後16時
場所:dios北千里 「出逢いの広場」(田村書店前の周辺)
北千里駅(〒565-0874 吹田市古江台4丁目2)
主 催:東日本大震災復興支援・さよなら原発第7回北千里駅前 チャリティーフェスタ実行委員会
書籍・DVD・避難者さんの手作り品など販売いたします~♪
スペースに余裕があれば、フリマ(子供の洋服)もします。
お祭りのような楽しそうなチャリティーフェスタ(^^♪
子供も楽しめる企画があるようなので、
親子で楽しみたいと思っております。
是非、親子連れの方も遊びに来てください~。
サンドリのお隣は、サンドリでも「羊毛ひつじ」を販売させていただいてますが、
そのひつじの先生「ひつじの惑星」のブースです。
食べ物もおいしそうです!(^^)!
お手伝いしてくださる方も大歓迎です!
皆さん来てくださいね!!
(参照)
https://www.facebook.com/events/102600776747227/
6月13日(土)午後1時30分~4時30分 地球環境大学 第2回「福島は今、原発は未来への負の遺産」(市民NPO CASA主催)@大阪歴史博物館
3.11原発避難者の報告があります。
CASA連続市民講座
第23期 地球環境大学
「地球温暖化、エネルギーの未来を考える」
第2回 「福島は今、原発は未来への負の遺産」
日時 6月13日(土) 1時午後30分~4時30分
場所 大阪歴史博物館第一研修室
内容
◇講演 「福島原発の今」伴英幸さん
(原子力資料情報室共同代表、事務局長)
「原発問題に関心を持ったのは、1979 年のスリーマイル島原発事故から。地域の市民運動 に参加し、勤務先の生活協同組合でも組合員の方々と相談して原発問題に取り組みました。 1981 年、勉強会の講師に招いたことで高木仁三郎さんと出会い、1986 年のチェルノブイリ 原発事故をきっかけに原子力資料情報室で働くことに。原子力工学や物理学などを専攻し ていない分、原発にかかわるさまざまな問題に関心を持つようにしています。」
(原子力資料情報室ホームページより)
◇報告「(仮題)原発被災者の今」
森松明希子さん(福島からの避難者)
兵庫県伊丹市生まれ。福島県郡山市在住中に東日本大震災に被災。当時3歳と5 ヶ月の2児を 連れて1 ヶ月の避難所暮らし、2011 年5月から大阪市へ母子避難。「避難の権利」を求めて大阪 地方裁判所に集団訴訟を提起した原発賠償関西訴訟原告団代表。
参加費 資料代として CASA会員500円、一般1000円
参加申込み必要(下記をご利用ください)
(1) office@casa.bnet.jp 宛てメール、
(2) 06-6910-6302 宛てFAX、
(3) 06-6910-6301 宛て電話、
にて、ご連絡ください。
(参照)http://casaletter.blog52.fc2.com/blog-category-16.html#N382
避難者の声を是非お聞きください。
CASA連続市民講座
第23期 地球環境大学
「地球温暖化、エネルギーの未来を考える」
第2回 「福島は今、原発は未来への負の遺産」
日時 6月13日(土) 1時午後30分~4時30分
場所 大阪歴史博物館第一研修室
内容
◇講演 「福島原発の今」伴英幸さん
(原子力資料情報室共同代表、事務局長)
「原発問題に関心を持ったのは、1979 年のスリーマイル島原発事故から。地域の市民運動 に参加し、勤務先の生活協同組合でも組合員の方々と相談して原発問題に取り組みました。 1981 年、勉強会の講師に招いたことで高木仁三郎さんと出会い、1986 年のチェルノブイリ 原発事故をきっかけに原子力資料情報室で働くことに。原子力工学や物理学などを専攻し ていない分、原発にかかわるさまざまな問題に関心を持つようにしています。」
(原子力資料情報室ホームページより)
◇報告「(仮題)原発被災者の今」
森松明希子さん(福島からの避難者)
兵庫県伊丹市生まれ。福島県郡山市在住中に東日本大震災に被災。当時3歳と5 ヶ月の2児を 連れて1 ヶ月の避難所暮らし、2011 年5月から大阪市へ母子避難。「避難の権利」を求めて大阪 地方裁判所に集団訴訟を提起した原発賠償関西訴訟原告団代表。
参加費 資料代として CASA会員500円、一般1000円
参加申込み必要(下記をご利用ください)
(1) office@casa.bnet.jp 宛てメール、
(2) 06-6910-6302 宛てFAX、
(3) 06-6910-6301 宛て電話、
にて、ご連絡ください。
(参照)http://casaletter.blog52.fc2.com/blog-category-16.html#N382
避難者の声を是非お聞きください。
【募集】ブログ隊、募集!
皆さまに、より多くの情報をタイムリーにお伝えするため、
blogの記事をアップするお手伝いをしていただける方を募集しております。
手伝えるよ!という方は、
件名に【ブログ隊募集】と記載いただき、
サンドリのメールアドレスまでご連絡下さい。
サンドリ代表メール sandori2014@gmail.com
blogの記事をアップするお手伝いをしていただける方を募集しております。
手伝えるよ!という方は、
件名に【ブログ隊募集】と記載いただき、
サンドリのメールアドレスまでご連絡下さい。
サンドリ代表メール sandori2014@gmail.com
《【6月11日】福島県大阪事務所へ避難者の声を届けます》のご案内
~関西へ避難しているみなさまへ~
あす6月11日。震災と原発事故からちょうど4年と3か月。
私たち避難者の声を、あらためて伝えに行きませんか?
====================================================
福島原発事故から4年と3か月。
県民切り捨ての復興はありえません。
福島県とこの国の<真の復興>を願い、
関西各地の避難者が要望を福島県に伝えます。
====================================================
東日本大震災および東京電力福島原発事故が起きて明日で4年と3か月
となります。私たちは、原発事故の影響により避難を余儀なくされ、
関西に暮らしている避難者です。
関西の皆様には、あたたかく私たちを受け入れ、ご支援いただいている
ことに、心から感謝いたします。
住み慣れたふるさとから離れた地での避難生活は、長い人で4年を越え
ました。
強制避難となった人、「自主」避難者として避難をした人、家族と離れ
離れになった人、避難先を転々とした人、さまざまな事情で帰還を選択
した人・・・。当事者の抱える悩みや想い、生活再建の状況もそれぞれ
です。
先月、福島県の「自主」避難者への住宅支援の2016年度打ち切り方針
が報道されました。
また、自民党と公明党による復興加速化のための第5次提言案では、年間
放射線量が年間20~50ミリシーベルト以下の「居住制限区域」(約2万3千
人)と同20ミリシーベルト以下の「避難指示解除準備区域」(約3万1800
人)について「遅くとも事故から6年後までに避難指示を解除し、住民の
帰還を可能にしていく」と明記されました。その上で、避難指示解除後1
年後には賠償も打ち切られるとされています。
このような、福島県と政府与党が描く復興ビジョンには、私たち被災当
事者の声は活かされているとはいえません。しかし、私たち当事者の声が
広く聞かれ、実状にかなった復興支援がなされてこそ、福島県および日本
の復興は可能となります。福島県とこの国の真の復興のために、私たち避
難者は、福島県に、改めて避難者の現状をお伝えし、住宅支援の継続と、
原発事故被災者に対する住宅・保養・健康などに関する本格的な支援の必
要についてのお願いを改めて申し入れる場をつくらせていただきます。
呼びかけ人:うのさえこ・加藤裕子
日 時: 2015年6月11日(木)16:30~17:30
場 所: 福島県大阪事務所
〒530-0001 大阪府大阪市北区梅田1丁目3−1
06-6343-1721
内 容:
1. 避難者住宅支援の延長を求める陳情書の提出
2. 関西各地の避難者からのメッセージの提出
3. その他
参加を希望される方は、下記までご連絡ください。
また、避難者の皆さまからのメッセージを募集しています。
福島県に伝えたいメッセージをどうぞお寄せ下さい。
明日、福島県大阪事務所にお届けいたします。
問い合わせ・参加連絡・メッセージは下記へ
iamhome8@gmail.com
070-5537-0478(うの)
あす6月11日。震災と原発事故からちょうど4年と3か月。
私たち避難者の声を、あらためて伝えに行きませんか?
====================================================
福島原発事故から4年と3か月。
県民切り捨ての復興はありえません。
福島県とこの国の<真の復興>を願い、
関西各地の避難者が要望を福島県に伝えます。
====================================================
東日本大震災および東京電力福島原発事故が起きて明日で4年と3か月
となります。私たちは、原発事故の影響により避難を余儀なくされ、
関西に暮らしている避難者です。
関西の皆様には、あたたかく私たちを受け入れ、ご支援いただいている
ことに、心から感謝いたします。
住み慣れたふるさとから離れた地での避難生活は、長い人で4年を越え
ました。
強制避難となった人、「自主」避難者として避難をした人、家族と離れ
離れになった人、避難先を転々とした人、さまざまな事情で帰還を選択
した人・・・。当事者の抱える悩みや想い、生活再建の状況もそれぞれ
です。
先月、福島県の「自主」避難者への住宅支援の2016年度打ち切り方針
が報道されました。
また、自民党と公明党による復興加速化のための第5次提言案では、年間
放射線量が年間20~50ミリシーベルト以下の「居住制限区域」(約2万3千
人)と同20ミリシーベルト以下の「避難指示解除準備区域」(約3万1800
人)について「遅くとも事故から6年後までに避難指示を解除し、住民の
帰還を可能にしていく」と明記されました。その上で、避難指示解除後1
年後には賠償も打ち切られるとされています。
このような、福島県と政府与党が描く復興ビジョンには、私たち被災当
事者の声は活かされているとはいえません。しかし、私たち当事者の声が
広く聞かれ、実状にかなった復興支援がなされてこそ、福島県および日本
の復興は可能となります。福島県とこの国の真の復興のために、私たち避
難者は、福島県に、改めて避難者の現状をお伝えし、住宅支援の継続と、
原発事故被災者に対する住宅・保養・健康などに関する本格的な支援の必
要についてのお願いを改めて申し入れる場をつくらせていただきます。
呼びかけ人:うのさえこ・加藤裕子
日 時: 2015年6月11日(木)16:30~17:30
場 所: 福島県大阪事務所
〒530-0001 大阪府大阪市北区梅田1丁目3−1
06-6343-1721
内 容:
1. 避難者住宅支援の延長を求める陳情書の提出
2. 関西各地の避難者からのメッセージの提出
3. その他
参加を希望される方は、下記までご連絡ください。
また、避難者の皆さまからのメッセージを募集しています。
福島県に伝えたいメッセージをどうぞお寄せ下さい。
明日、福島県大阪事務所にお届けいたします。
問い合わせ・参加連絡・メッセージは下記へ
iamhome8@gmail.com
070-5537-0478(うの)
6月28日(日)世界難民の日 関西集会2015のご案内
世界難民の日 関西集会2015(6/28)のご案内
ワン・ワールド・フェスティバルにも出展された、
RAFIQ(在日難民との共生ネットワーク)が事務局となり、
「世界難民の日 関西集会2015」が開催されます。
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream (略称:サンドリ)も
ブースを出させていただくことになりました。
国連の「国内強制移動に関する指導原則」(GPID)では,
災害避難者は国内避難民として保護されるべきことが明記されていますので、
私たち3.11東日本大震災避難者は「国内避難民」に該当します。
日本に保護を求める難民は世界的な紛争の中で急増しています。
急増する日本の難民が抱える課題とその支援について、
講演や事例報告から理解を深め、
私たち「国内避難民」もともに学び、
そして今後の災害避難の教訓とできますよう、
ともに考えて参りたいと思います。
****世界難民の日関西集会******
2015 WORLD REFUGEE DAY in Kansai
~~~同じ時代 同じ地球に 生まれたんだから~~~~
●日時 6月28日(日) 13:00~16:30(開場12:30)
●場所 〒530-0005 大阪市北区中之島4-3-53
大阪大学中之島センター10F 佐治敬三メモリアルホール
TEL 06-6444-2100
●参加無料 アクセスなど、
詳細は右記HPで http://rafiq.jp/wrd/index.html
集会内容
・講演「国連の国際的な難民の保護の取り組みについて」
国連高等難民弁務官事務所(UNHCR)駐日事務所 副代表 (法務部)
講師:小尾尚子氏
・難民からの事例・難民の裁判
・難民支援NGOの取り組みや報告など
・写真展 NGO紹介ブースなど
★ 当日の様子はUstreamで中継 → 「難民ナウ!TV」
主催:2015年世界難民の日関西集会実行委員会
共催:大阪大学グローバルコラボレーションセンター(GLOCOL)
後援:UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)駐日事務所、公益社団法人アムネスティ・インターナショナル日本、全国難民弁護団連絡会議、特定NPO法人なんみんフォーラム(FRJ)、特定非営利活動法人 関西国際交流団体協議会
協力:難民ナウ!
参照
http://www.interpeople.or.jp/info/2015/05/2015628.html
RAFIQのホームページ → http://rafiq.jp
RAFIQのTwitter → http://twitter.com/RAFIQ_network
2015年世界難民の日関西集会Web → http://rafiq.jp/wrd/
ワン・ワールド・フェスティバルにも出展された、
RAFIQ(在日難民との共生ネットワーク)が事務局となり、
「世界難民の日 関西集会2015」が開催されます。
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream (略称:サンドリ)も
ブースを出させていただくことになりました。
国連の「国内強制移動に関する指導原則」(GPID)では,
災害避難者は国内避難民として保護されるべきことが明記されていますので、
私たち3.11東日本大震災避難者は「国内避難民」に該当します。
日本に保護を求める難民は世界的な紛争の中で急増しています。
急増する日本の難民が抱える課題とその支援について、
講演や事例報告から理解を深め、
私たち「国内避難民」もともに学び、
そして今後の災害避難の教訓とできますよう、
ともに考えて参りたいと思います。
****世界難民の日関西集会******
2015 WORLD REFUGEE DAY in Kansai
~~~同じ時代 同じ地球に 生まれたんだから~~~~
●日時 6月28日(日) 13:00~16:30(開場12:30)
●場所 〒530-0005 大阪市北区中之島4-3-53
大阪大学中之島センター10F 佐治敬三メモリアルホール
TEL 06-6444-2100
●参加無料 アクセスなど、
詳細は右記HPで http://rafiq.jp/wrd/index.html
集会内容
・講演「国連の国際的な難民の保護の取り組みについて」
国連高等難民弁務官事務所(UNHCR)駐日事務所 副代表 (法務部)
講師:小尾尚子氏
・難民からの事例・難民の裁判
・難民支援NGOの取り組みや報告など
・写真展 NGO紹介ブースなど
★ 当日の様子はUstreamで中継 → 「難民ナウ!TV」
主催:2015年世界難民の日関西集会実行委員会
共催:大阪大学グローバルコラボレーションセンター(GLOCOL)
後援:UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)駐日事務所、公益社団法人アムネスティ・インターナショナル日本、全国難民弁護団連絡会議、特定NPO法人なんみんフォーラム(FRJ)、特定非営利活動法人 関西国際交流団体協議会
協力:難民ナウ!
参照
http://www.interpeople.or.jp/info/2015/05/2015628.html
RAFIQのホームページ → http://rafiq.jp
RAFIQのTwitter → http://twitter.com/RAFIQ_network
2015年世界難民の日関西集会Web → http://rafiq.jp/wrd/
An Evacuation Memoir by Akiko Morimatsu (written in May, 2012)
An Evacuation Memoir
by Akiko Morimatsu (written in May, 2012)
I evacuated from Koriyama city in Fukushima to Osaka after the Golden Week (a holiday period in Japan, from the end of April to the beginning of May) in 2011. I have a family of four: my husband, a four-year-and-four-month-old son, a one-year-and-eight-month-old daughter, and myself. I am here in Osaka with my two children while my husband stays in Fukushima alone to support us.
On March 11, 2011, the day of the earthquake, I was alone with my five-month-old daughter at home in an apartment on the eighth floor of a ten-storied apartment building. My daughter and I were relaxing in the afternoon as usual. My son, who had just turned three, was at the kindergarten that he was supposed to enter in April the following year but had been allowed to go since when he was two. He had got on the bus to the kindergarten at 8:00 in that morning, as usual.
At 2:46 in the afternoon, I felt an intense quake and immediately recognized it was an earthquake. First, I thought of my daughters’ safety and picked her up holding her head to protect it. It was quite different from minor quakes of level 3 or 4. The quake was also increasing its intensity, so I couldn’t keep standing. I felt, for the first time in my life, the danger of my life then. At the same time, I felt the danger of my daughter’s life, as well.
The earthquake of seismic intensity 6 lasted only for a moment, but I lost my composure and was almost panicked by the terrible sounds and intense quakes. Since I couldn’t keep myself steady due to the extremely intense quaking, I laid my daughter under a low table. My daughter who had just become five months old was laughing happily, misunderstanding the quake as something cradling her. It may seem to be simply a funny story now since her life was saved, but it was far from being funny at that time.
It was a pretty long quake. I saw, in the living room, heavy pieces of furniture like a cupboard tipping over from the wall and a sofa jumping up and down like in a slow motion film, coming close to us in the center of the room. It is frightening to recall it even now. To be honest, I thought it was something much more sinister than an earthquake, for it was so intense and terrible. The long quake filled me with so much terror that I thought it might be endless and I might be kept shaking forever.
Fortunately, neither my daughter nor I were injured. I didn’t know when the quake stopped. When I noticed, my house was full of rubble and there was no space to walk. The fear I felt, however, was not over yet. I looked at the door of the living room to find somewhere to escape, only to find water slowly coming in covering the floor like an ameba.
The apartment house was an old-fashioned, completely-electric one. Each apartment unit had a tank that could keep warm water for about two days. The tank seemed to have tipped over or had collapsed by the level-six earthquake, and the distribution pipe was cut and broken. Water streamed out from the living room to other rooms, and after an hour or so, the whole apartment was under water about ten to fifteen centimeters deep.
I took my daughter to the bedroom and laid her down on the futon bedding on the floor. After a while, water started dropping from the ceiling, walls, and beams. In short, the tanks of upper units, the ones on the 9th and 10th floors were also broken. At first, it was like leaking due to rain. Rusty-colored water was dripping in all of the rooms. I was worried about the house’s strength, for aftershocks of level 4 or so had occurred often. There was no dry and safe place where my baby daughter could lie down in the house because of the flooding and dripping water. I didn’t want the cold and dirty water to wet my daughter. Although it was still cold and a little snowy outside, I made up my mind to go out of the house. I carried my daughter on my back for the first time though she was only five months old.
I put on the baby sling, a present from someone celebrating the birth of my second child. The instruction of the baby sling said it was to be used after a baby’s head becomes stable, i.e., six months or so after birth. It was yet brand-new, and had never been used. But I tried it on anyway due to the emergency. The elevator of the apartment house had stopped. And I didn’t know how many steps I would have to go down the stairs between the eighth and first floor. So I judged it was impossible to do it holding my baby in front of me. I took the risk of carrying her on my back, praying that her head was already stable.
Besides, I had to go out to search for my son who, I thought, was at the kindergarten. I had never stopped thinking about my three-year-old son even a moment from the beginning of the quake. “The kindergarten building was newly built in the previous summer… But it was shaken by this intense earthquake… He might not be OK…” I was thinking of worst-case scenarios about him already in the middle of the earthquake. On the other hand, I was praying and trying to convince myself that the kindergarten staff were protecting him. I wasn’t able to go to the kindergarten immediately to see him, because my apartment had dripping water and I had to keep my daughter safe. When I noticed the time, two hours had passed since the earthquake had occurred. It was the time when kindergarten’s bus was usually to arrive at the apartment entrance, but it didn’t.
I didn’t want anything bad to happen to my son, but there was no safe place for him even if he came back. So I was just hesitating without knowing what to do or where to go, carrying my baby girl on my back. Then, a nursing home across the street opened its large room and kindly let people with babies in. I finally got a place to keep my child safely. Now I could go to look for my son. When I started to do so, it was before 7:00 p.m., already after dark. I was lucky enough to see the car sent by the kindergarten taking children home for their parents who couldn’t go to pick them up. At last, I got together with my son in peace. Fortunately, he was safe and sound. When he woke up to the first shock of the level-6 quake, he had been taking a daytime nap. So the quake didn’t seem to become traumatic for him, and he seemed to have no fear for earthquakes even after going through aftershocks. It might have been a blessing in disguise.
My husband had gone to work as usual in the morning, saying “I am going to go on a business trip to Sendai tonight.” It takes an hour or so from Koriyama, where we live, to Sendai by a Shinkansen “bullet train.” When the earthquake occurred, I instantly thought, “It is bad for him, if he is on a Shinkansen train now… for it stops.” I wasn’t informed of his time schedule. I got worried and wondered, “Is he already in Sendai or is he in a Shinkansen train? I wonder if I can meet him today. Above all, is he all right?” I later learned that he had finished his work at the usual time and was on the way to the Shinkansen station when the earthquake occurred. He quickly went back to the office. Fortunately he was not away from Koriyama. After straightening the chaotic office a little, he jumped in the car he had parked at the office, and came back home around at 11:00 p.m.
I wrote “Kids are OK! We are all at the nursing home across the street” on two pieces of paper with a felt pen, and pasted them on the entrance door and the mail box down on the first floor. He saw them and sought us out. Thus, we could get together in peace within the day. We experienced the life in an evacuation center for a month after that.
In this way, we lost our house and all of our household belongings. Radioactive pollution caused by the nuclear power plant accidents just after the earthquake was so serious that it was impossible to rebuild our life in Fukushima. It forced us to choose a double life in Fukushima and away in Osaka. This was in May, last year. Almost one year has passed since we came to Osaka. I still feel as if I were dreaming. I do hope to settle down, but this double life has been a burden for me. I haven’t been able to recover the stability of living ordinary days as we had had before the disaster. Although we decided to take up a double life in order to keep our young son and daughter healthy, the evacuation life has been harder than expected.
Economic weight due to maintaining a double life (double payment of our house rents and utilities) and the travel cost for my husband to come to Osaka to meet his children makes our family finances tight. However, we aren’t receiving any subsidy from the central government or a local government. This is because Koriyama, about 60 km away from the Fukushima Daiichi nuclear power plant, is out of the area designated for evacuation or an evacuation order. So our evacuation was completely “voluntary.”
Nonetheless, the numerical value of the quantity of radioactivity that Geiger counters showed in Koriyama, Fukushima prefecture, was so high that I felt like covering my eyes, even in the spots supposedly “thoroughly decontaminated.” In reality, however, playing in the sandbox in playgrounds was out of question. Even letting children go out for shopping or for kindergarten was risky. It wasn’t an environment where you were able to raise your children normally. Such a situation hasn’t changed even after a year. On the contrary, we can’t take our eyes off of the on-going reality, for even the general public carry Geiger counters now. I think things are really serious.
Mandating only expectant women and mothers with infants to evacuate might be better… I don’t remember how many times I thought so. They are wasting human resources and money only on decontamination that looks unscientific even to my amateur eyes, and just dispersing debris nationwide. I don’t think it could be more irrational. I think that taking young people (children who have futures) out of polluted areas, no matter how much money it might require, is much better than taking out debris. I believe so from the bottom of my heart.
My husband could come to see our children once a month this year - at most. Sometimes he couldn’t come for over a month. I am taking care of my children by myself, persuading myself, “This is just like the case of many families who have a father living apart in another city in Japan or abroad for business.” However, there is no such fixed term for us as for families split due to business reasons. When I consider that this situation will probably continue for a pretty long time, I get worried about its influence on our children’s mental peace. I can’t remember how often I wondered if it was good for us to go out of Fukushima this year.
Was it really right that we separated our son who loves his father very much from his father? My daughter, who was five months old at the disaster time, is growing up without knowing much about her father. Doesn’t it create any unnatural distance in the relationship between father and daughter in the future?
Above all, I worry about the mental health of my husband, who stays alone in Fukushima for our sake and can’t even see his children’s sleeping faces every day. Is he really OK? On his days off, he drives his car more than 700 km to Osaka to see them, but he doesn’t (can’t) stay here for 24 hours. He returns the same way without enough rest. Although he came all the way to see them, I yell at our children, “Your daddy is tired with his job and has driven a long way. Let him sleep!” In such a case, I wonder what I am doing.
Ever since the disaster occurred, not one of my family members has enjoyed full rest either mentally or physically. The fear of invisible radioactivity in Fukushima weighs heavily on our minds. Outside Fukushima, we are forced to live an unstable life, apart from my husband. Our ordinary lives as ordinary people living in Fukushima prefecture changed drastically after that day. However, a year after evacuation, I’m gradually trying to move forward, accepting the present state, however gradually it may indeed be.
More than a year after the disaster, while official support programs are being terminated one after another, we, a mother and two children, have managed to survive so far in Kansai. For one thing, it is because I understand that we have to accept the present state. But, above all, it’s because there are many kind people who take supportive action for disaster victims and evacuees always keeping our wellbeing in their minds.
I am really thankful to any kind of support. I am simply grateful. Let me mention the one I feel especially thankful for. My children love playing outdoors very much. However, since I am managing to live day by day, it was impossible for me to take them out somewhere even on Saturdays, Sundays, or holidays. In such a situation, volunteer college students, men and women, played with evacuee children. This kind of activity was really great. My children and I are all deeply grateful.
In summer, the students invited children to a campout. Children were very happy to play with “big brothers and big sisters.” Since I have a baby, it is impossible for me to take children out for such things as camping or playing in the river, even living in Osaka unpolluted by radiation. I am truly grateful for the young volunteers.
Although I am the only one who can take care of my children in our daily life, I am too busy managing our day-to-day life itself to provide fun and pleasure to my children. I have consequently been suffering from a guilt feeling. I feel sorry for them. But having a lot of young people play with evacuee children and being helped in various ways, we have been given great mental support and hope. We Fukushima evacuees cannot thank them too much.
In addition, members of the social welfare council helped those without male family members to transport heavy pieces of furniture. While I was unpacking after our move, childcare volunteers in the area kindly took care of my baby. Indeed, various people have helped us in so many different ways. I couldn’t be more thankful for the support given in the Kansai area. I have no words to adequately express my appreciation. I simply thank them very much from the bottom of my heart.
In the magazine for the disaster-affected people that the Osaka social welfare council publishes there was an announcement of an exchange party for the disaster-afflicted people and evacuees. I participated in it, shared common problems and worries, and could gain emotional support. I met people in the same circumstances at the party and learned I was not alone.
I can’t tell how much I am relieved to be able to talk about my problems because I sometimes feel isolated and have no one to ask for advice.
I have managed to get through this difficulty so far, owing to the supportive organization that offered the exchange party with childcare volunteers. Now, I think I have to keep managing and will be able to keep living somehow.
A year ago, I was always spending my evacuation life without confidence, asking myself, “Was evacuation really right?” But now, I think we may have been rather lucky being able to get out of Fukushima, even though the “mother and children only evacuation” has a lot of problems. As many kinds of facts come out, and as I witness the reality that there are so many people who are sometimes called “refugees” or something, my inconsistency over our decision to evacuate has disappeared almost completely. On the contrary, now, I am convinced that our evacuation has been right.
As far as I know, there are no mothers with an infant living in Fukushima who has no worries. They are always looking for a place where they can let children play outdoors. They always seek for some kind of recuperation program during longer holidays. However, some can’t get out of Fukushima even for a short time, for all of their relatives live in Fukushima…There are many such trapped families.
While I was not able to move anywhere in the evacuation center in Fukushima for a month, I contemplated considerably seriously and deeply – the most deeply in my life - about rebuilding our life in Fukushima. I was trying to figure out how we could work it out, keeping the idea of rebuilding our life in Fukushima, despite feelings of anxiety about radioactive pollution in a situation where information about it was much more confusing than now. My conclusion was, however, “If there is a place to evacuate to, and if it is possible for us to evacuate, we should do so. Doing so is the best way for our children.”
Nothing is as stressful as spending a life in indefinable worries and fears, and being regulated in a lot of ways. For example, I used to always dry futon (Japanese-style bedding) outdoors, in order to put it under sunshine. But I had to do it with a futon-drying-machine after the accident. Washed clothes also had to be dried indoors, although my house was not so large.
It is pretty cool in the morning and at night even in summer in Fukushima.
So people were able to live without air conditioners even in summer. They used to open their windows to let in fresh air. But now they have to use their air conditioners in summer after the accident. It might be nothing for those who are used to doing so. But people in Fukushima have to change such small customs one by one, considering the damage that radiation might give to children in the future. The above is nothing but a minor example in their lives. Indeed, literally one by one, each small thing has affected our lives.
Since radioactivity is invisible, it was easy, to be honest, to imagine myself saying, “Take it easy. Forget about radioactive pollution. Take it as something that didn’t happen. Things will be OK.” However, when I considered my children’s health, I couldn’t compromise. At the same time, thinking about it seriously was making me almost neurotic. Thus, I was agonizing every day.
What is most unbearably difficult is that we have to be nervous about small points in our lives in general due to quite ambiguous worries or fears. That is, the officials don’t say that you have to take preventive measures because radiation is certainly harmful to your health. They say, instead, that you’d better do it because it might be harmful. This ambiguity really shatters us and makes us mentally exhausted. I think it is easy for mothers to understand this anxiety. No mother would choose an option that looks harmful to the children if there is only a little bit of health risk.
My son, four years old now, goes out to the playground in front of our house every day. Once he goes out, he is never back until sunset. He was too young to ride a bicycle a year ago. Although I knew that playing outdoors is important for children, the embarrassing fact is, I admit, that I have never thought they love playing outside so much. My son, who is being allowed to play outdoors enough in the kindergarten, goes out again to a nearby playground soon after he is back home. Seeing him do so convinces me every single day that it was right to have come to Osaka.
My one-year-old daughter likes playing in the sand in the playground very much. Only babies can stay inside the house for some months. Once they begin to walk, it’s utterly impossible for them to spend their lives indoors only. Now, my daughter plays in the sand every day, and loves taking walks outdoors, toddling. When she goes to the street, she walks on small side ditches or the roadside, where, in radiated areas, radioactive materials tend to gather to make what is called “hot spots.” While she is walking, she stumbles at least once. Every time she does it, she naturally lands on her hands. Now in Osaka, I only have to worry if she might injure her face or not. I don’t have to worry, as I would in Fukushima, about the potential long-term health hazard caused by radioactivity in such an ordinary, common happening as a one-year-old child stumbling on the road. An “ordinary life” that I speak of is really simple.
Going through the earthquake and the subsequent nuclear power plant accidents has affected and changed my idea about what is natural and what is ordinary. My sense of value, view of life, and evaluation standard on ordinary things have drastically changed. I would like my children to acquire an ability to survive and to live on in the true sense of the term. I would like to educate them so that they can do it. We are now living in such trying times.
Last of all, please let me introduce to you the subtitle of a book I recently read that impressed me. It is “The best crisis management is to use your own mind.” Despite the fact that Japan witnessed serious nuclear power plant accidents, this nation is planning to reboot other nuclear power plants without considering alternative means or countermeasures, nor thoroughly investigating into the causes of the accident. Having noticed that this nation has learned nothing while people in certain areas are still being victimized, I am appalled and deeply disappointed. I am taking it into my heart every day that we have to eventually make our own judgment or decisions, and accept self-responsibility. I have become aware of it through the disaster experience.
Even so, my children and I are able to spend our days supported by the warm kindnesses and thoughtfulness of those who truly care: volunteers and local people in the area. I deeply appreciate them.
I thank you very much sincerely.
Akiko Morimatsu
(written in May, 2012)
■The Japanese version of the letter is below, underneath Akiko's bio
…………………………………………………………………………………….
MORIMATSU, Akiko
Akiko Morimatsu was born in Itami, Hyogo Prefecture in 1973. She and her family, her husband, a 3 year-old son and a five-month old daughter then suffered the Great East Japan Earthquake while living in Koriyama City in Fukushima Prefecture in 2011. After living in a temporary shelter for about a month, Akiko fled to Osaka with her two children in May, 2011. She could get employment through the Osaka City Earthquake Victim Support Employment Promotion and now works as a part-time office worker at the Osaka North District Council of Social Welfare.
Currently, she is representative of the Nuclear Liability Litigation Kansai Group which filed a lawsuit at Osaka District Court claiming the human right to evacuate from nuclear contaminated areas. The plaintiffs claim that the human right to live free from the fear of radiation exposure and to enjoy healthy living must be applied equally to all victims, including evacuees, returnees and those who have remained in the areas afflicted by nuclear accidents. They define their lawsuit as a lawsuit for human right relief and seek permanent disaster relief for victims of any kinds of nuclear disasters. She has been very actively engaged in her social activities to see how our society as a whole can change since 3.11.
Representing:
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream
(Association of the Evacuees from the Great East Japan Earthquake Disaster)
http://sandori2014.blog.fc2.com/blog-category-25.html
Cooperating with:
原発賠償関西弁護団
(The Kansai lawyers’ group for the nuclear liability litigation)
http://hinansha-shien.sakura.ne.jp/kansai_bengod…/index.html
Working closely with:
原発賠償関西訴訟KANSAIサポーターズ
( the nuclear liability litigation Kansai supporters)
http://kansapo.jugem.jp/
Publication:
Evacuating Fukushima with My Children: Mental Locus to Reach the Family Decision to File a Lawsuit
http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ha/0676.html
(English translation by Yoko Chase, Ph.D.)
手記 森松明希子
この手記は、さらに詳細を加筆し、震災から2年半までを綴った母子避難本と して出版されました。
『母子避難、心の軌跡~家族で訴訟を決意するまで~』 (2013年12月・かもがわ出版)

http://www .kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ha/0676.html
【日本語版(全訳)】
森松明希子 (2012年5月・記)
私は、福島県郡山市から昨年のゴールデンウィーク明けに、 大阪に避難してき ました。 家族は、夫と、現在4歳4ヶ月の息子、1歳8ヶ月になる娘の4人家 族です。 大阪へは母子3人だけで避難して来ており、 夫は今もひとり、福島 に残って私たち妻子の為に働いてくれています。 震災当日の2011年3月1 1日、 私は当時生後5ヶ月の娘と2人きりで自宅マンションにいました。 自宅 マンションは、10階建ての8階の一室でした。 その日の午後もふだんの日常 と何ら変わらず、 娘相手にのんびりと過ごしていました。 当時3歳になったば かりの息子は、 翌月の4月に入園する予定の幼稚園に2歳の頃から通っていた 為、 こちらもふだんと変わらず、 朝8時に迎えに来る幼稚園バスに乗って幼稚 園に行っていて不在でした。 午後2時46分、 とても激しい揺れを感じた私 はすぐに地震だと気づきました。 とりあえず目の前にいる娘の安全を考え、娘 の頭を守るように抱きかかえました。 でも、震度3や4のちょっとした揺れと はまるで違い、 その揺れはどんどん激しくなる一方で、私はその場に立ってい られませんでした。 生まれて初めて、私は自分の命の危険を感じました。 と、 同時に、娘の命の危険ももちろん感じました。 震度6は一瞬冷静さを失うくら い、ほんの一瞬でしたが、パニックに陥りそうでした。 ガーッという凄まじい 音と揺れ、そしてあまりに激しい揺れで立っていられないので、 私は娘を食卓 のローテーブルの下に寝かせたのですが、 当時生後5ヶ月になったばかりの娘 は、 激しい揺れが自分を揺さぶってあやされているものと勘違いして、 キャッ キャ、キャッキャと声を上げて大喜びして笑っていました。 命が助かった今と なれば笑い話ですが、 当時はそれどころではありませんでした。 かなり長い 揺れでしたが、 リビングにいた私が目にしたのは、 食器棚などの重たい家具や ソファーが壁から離れ、 ピョン、ピョン、とまるでスローモーションのように 部屋の中央にいた娘と私の方に迫って来る様で、今思い出してもゾッとします。
正直、地震だと最初に思ったのは間違いで、 何か別のもっとすごい事が起こ っているのかと思ったくらいです。 それと、あまりに長い揺れで『終わりはな いのか?永遠に揺さぶられ続けるのかしら?』と本当に恐怖でいっぱいでした。
幸い、娘も私もケガはありませんでした。 いつ長い揺れが収まったのかは分 かりませんが、気づいた時には家中、 瓦礫の山で足の踏み場もない状態に唖然 としたのを覚えています。 でも私の味わった恐怖はこれで終わりではありませ んでした。 逃げ場を確保しようと、ふとリビングの端、ドアの方に目をやると、
廊下の辺りから水がアメーバのように滲み出ているのです。 自宅は古いタイ プのオール電化のマンションで、 各戸(室内)に2日分くらいの温水を溜めて おける大きな給水タンクが備え付けられているのですが、 そのタンクが震度6 の揺れで傾いたり倒れたりしたらしく、配水管も切断、破壊したことによって、
地震発生から1時間後くらいには、 自宅のリビングから各部屋に水が流れ出し て、 全部屋が水に浸かってしまいました(水深10~15センチくらい)。 娘 は布団を敷いた寝室に避難させていたのですが、 そうこうするうちに今度は天 井からも、 ようするに、9、10 階の上階にある部屋も同様にタンクが倒れて浸 水し、 その水が漏れて壁や梁の隙間から水が降ってきました。 はじめは雨漏 りのような感じで、 赤茶色のおかしな色の水がポタポタと全部屋から落ちて来 て、 まだ震度4くらいの余震も頻繁に起こる中、 私はマンションの強度が心配 になりました。 しかも浸水と上から降ってくる水漏れで、 もう0歳の娘を寝 かせておける乾いた安全な場所が 自宅には何処を探してもありませんでした。
まだ寒い季節で娘を濡らすわけにはいかないので、 外は小雪が舞っていまし たが、 もう家を出るしかないと決意し、 生後5ヶ月にして初めて娘を“おんぶ” しました。 第2子出産のお祝いで頂いていたおんぶヒモは、 「首が据わる生 後6ヶ月頃からの使用可」と書かれており、 頂いたままの新品でまだ着用した ことがありませんでしたが、 私は一か八かで娘を背負ってみました。 何しろエ レベーターの停止したマンションの8階から 何回階段を上り下りする事になる か分からなかったので、 『前抱きのスリングでは無理!』と判断して、 娘の首 がどうか据わってて...と祈るような気持ちでエイヤァっと娘をおぶりました。
それに幼稚園にいるであろう息子を、 自分の足で捜索にも行かなければなりま せんので... 当時3歳になったばかりの息子の事を 地震の揺れの瞬間から一時 も忘れてはいませんでした。 園舎は確か前の夏に新築したばかり... でもこの 揺れだし... ダメならダメかもしれない... 揺れている最中から、息子の生命も覚
悟していました。 幼稚園の先生が守ってくれている(はず)と信じて、 祈るよ うな気持ちでいました。 自宅が水没して下の娘の安全確保やらで、幼稚園へは すぐに向かえずにいました。 気がつけば地震から約2時間が経過し、 午後4時 半の送迎バスの時刻となっていましたが、 ふだんは自宅マンション前までやっ てくる園バスはもちろんやってきませんでした。 息子と行き違いになってはい けないし、 また、息子が帰って来ても自宅に安全な居場所はないしで、 私は余 震が頻繁に起こる中、 娘をおぶってオロオロしていたら、 自宅マンションの前 にあった保育園が広間を開放して下さり、 そこへ「乳幼児を連れている人はお いで」と言っていただけました。 子どもたちにとって安全な場所を確保するこ とが出来たので、 やっと息子を捜しに行ける、探しに行こうとしたのが夜の7 時前で、 辺りは真っ暗になっていました。 幼稚園の先生がお迎えに行けてい ない園児の為に、 1 軒 1 軒園児の自宅まで送り届けて下さる車に運良く遭遇出 来たので、 やっと息子とも無事に再会が果たせました。 息子は幸いにもケガ はなく、 ちょうどお昼寝時間中に震度6の揺れがあったため、 その揺れで目が 覚めたという感じで、 地震の揺れ自体がトラウマになるという事もなく、 むし ろその後の余震を体験し「自分は地震は全然怖くないんだ!」 と思っているよ うで、それは不幸中の幸いだったのかもしれません。 夫はその日「夜は仙台に 出張だから」と言って、 早朝いつもどおり出勤していきました。 私たちの住ん でいた郡山は、仙台まで新幹線で1時間くらいの所にあります。 地震発生時、 瞬間的に『新幹線は止まってしまうだろうから乗ってたらまずいな』と思いま した。 ただ、何時の新幹線で仙台に向かっているのかも聞いていなかったし、 それこそもう仙台にいたり新幹線に乗っている途中だったら、 今日中に夫に会 えるだろうか?そもそも夫は無事なのかしら?と心配しました。 夫は通常勤務 を終えて、 新幹線に乗るために駅に向かって歩いている道路上で地震にあった そうで、 すぐに職場に歩いて戻ったらしく、 幸い郡山市から離れてはいません でした。 被災した職場の片づけをしたあとに、 勤務先に停めていた自分の車 に乗って 夜中の11時頃に自宅マンションに戻って来ました。 自宅の玄関ド アと一階のロビーの郵便ポストのところに、 「子供たちは無事!皆でマンショ ン前の○○保育園にいます」と、マジックで書いた紙を貼り付けておいたので、
それを見て夫は私たちの居場所を何とか探し当て、 私たち家族はかろうじてそ の日のうちに家族四人、 全員無事に再会を果たすことができました。 その日 から約1ヶ月の間、私達家族は避難所暮らしも経験しました。 そんなわけで、
私たちは震災で自宅と家財道具のすべてを失ってしまいました。 そして、震災 直後の原発事故による放射能汚染が深刻で、 福島での生活再建をすることがで きず、やむをえず家族バラバラの福島・大阪の二重生活をする道を選びました。
それが昨年の5月のことです。 大阪に避難してきてちょうど1年が経とうと していますが、 まだ夢の中にいるようで、 早く地に足の着いた生活を送りたい と切に願っているのですが、 やはり、この二重生活が自分の中では様々な負担 となっているようで、 なかなか落ち着いた生活、震災前の普通の日常を取り戻 すには至っていません。 幼い息子と娘の健康を考えて決意した二重生活ですが
想像以上に厳しい避難生活が続いています。 二重世帯の維持(家賃、光熱費 の2重払い)と 夫が幼い子どもたちに会いに来る為の移動交通費がかさんで、 経済的負担が家計を圧迫しています。 ですが原発から60キロメートルほど離 れている郡山市は、 特に避難勧告や避難指示が出されるわけでもなく、 全くの 「自主避難」であるため、 国や自治体からは何の補助も受けていません。 し かし福島県郡山市は、精一杯除染した所でさえも 放射能量測定器の示す値は目 を覆いたくなる数値を示しており、現実は公園での砂場遊びなどもってのほか、
子どもたちを買い物や通園であっても 少しでも外に出すのも恐ろしく、 普通 に子育てを出来る環境とはとても言えません。 一年経ってもその現状は何ら変 わらず、 むしろ個人レベルで測定器を持っているため、 現実から目を背ける事 も出来るはずもなく、 本当に事態は深刻だと思うのです。 いっそ、妊婦さん や乳幼児のいる家庭だけでも 強制的に避難退去命令を出してくれたらいいのに ... と、何度思ったか知れません。 素人目にも非科学的だと思われる除染作業 にばかり マンパワーとお金をつぎ込んで、ガレキをせっせと全国にまき散らす など 非合理的なことこの上ないと思うのです。 汚染地帯からはガレキを運 び出すより、 「人」(将来のある子どもたち)を、 それこそいくらお金を積ん でも出すべきだと 切実に思います。 夫はこの1年、 月に一度、子どもたち に会えれば良い方で、 1ヶ月以上会えない時もありました。 『単身赴任や海 外赴任のお父さんを持つご家庭と同じなんだ!』と 自分に言い聞かせて日々の 子育てをしていますが、 「いつまで」という任期があるわけでなく、 おそらく 相当長期に渡ってこの生活が続くと考えると、 子どもの精神面での影響が心配 で、 本当に福島を出て来て良かったのかしら...と この1年、何度悩んだかしれ ません。 お父さんが大好きな息子を引き離してしまったのは本当に正しかった のか? まだ震災当時、生後5ヶ月だった娘はほぼ父親を知らないで育ってしま
って 今後の父娘関係に影響は出ないだろうか? なによりも、 家族の為にたっ たひとりで福島に残って 子どもの寝顔さえ毎日見る事が出来ない生活をしてい る夫の精神状態は本当に大丈夫なのだろうか? 休みがあれば、700キロ以上 離れた大阪まで1人高速道路を車で飛ばして子どもたちに会いに来て、 大阪で は24時間も滞在しない(できない)で、また同じ道をろくに休まずに運転し て戻る... せっかく会いに来てくれた夫ですが、 子どもたちには「お父さんはお 仕事と運転で疲れてるから寝かせてあげて!」と 声を上げる私は母親として何 をやってるんだろう???とか... 震災以降、親子共々、心も身体も休まるとこ ろがありませんでした。
福島に残れば目に見えない放射能の恐怖におびえ、 出たら出たで、不安定な生 活と家族バラバラの日常を強いられる・・・ 普通の福島県民としての暮らしが あの日以来、一変してしまいました。 それでも避難して丸一年が経ち、 本 当に徐々にですが、この現状を受け入れ、 前を向いて歩いていこうとはしてい ます。 震災から一年以上経過し、公的支援もどんどん打ち切られていく中で、
「現状を受け入れるしかない」ということもちろんありますが、 関西に避難し て今まで母子3人で何とかやってこられたのは、 いまだ被災者、避難者の事を 忘れず 心にとどめて下さっている方々がいてくださるおかげです。 どのよう な支援も、本当にありがたく、感謝するばかりなのです。 特にありがたかった ご支援を具体的に申し上げますと、 例えば、 外遊びが大好きな子どもたちです が、 日々の生活がやっとで、 土日や休日でも子どもたちをどこかに連れて行っ てあげるなど 全く出来ませんでした。 そのような中、大学生のボランティア のお兄さんやお姉さんが 子供たちと遊んでくれるという企画などは、親子共々、 心底ありがたかったです。 また、夏にはキャンプなどに子ども達を招待してく ださり、 子どもたちは、大きいお兄さんやお姉さんと遊んでもらえたら 本当に 喜びますし、せっかく放射能汚染のない大阪に来たのにキャンプや川遊びとか、
赤ん坊を抱えてでは、私ひとりではさせてあげられないので、 本当にありがた く思います。 また、普段子どもたちと関わってあげられる大人は私ひとりきり なのに、 日々の生活を回すのが精一杯で、 子どもたちにはあまり構ってあげら れないのが可哀想で、心苦しく思っていたのですが、皆様のお力をお借りして、
また、たくさんの方々に子どもたちとふれあっていただけたら、 それが母子避 難をしている私たち親子にとって、なによりの一番望んでいる支援となります。 本当にありがとうございます。 他にも、 引越しでも男手がなく大きな家具を
運搬することもままならない状況に、 社会福祉協議会の方が手を貸してくださ ったり、 引越し荷物の片付けなどをする間、 赤ちゃんの面倒を地域の保育ボラ ンティアの方が見てくださったり...と、本当に様々な方々に様々な方法で、色々 助けていただきました。 関西で受けたご支援には、本当に感謝してもし足りな いくらいで、 なんとお礼を申し上げて良いかわからないくらいです。 本当にあ りがとうございました。 また、社協の方が届けてくださる被災者向けの情報誌 で、 被災者・避難者の交流会があることも知ってからは、 そちらに参加させて いただき、苦労や悩みを分かち合うことができ、 それが私の心の拠り所、心の 支えとなっています。 交流会で、同じ境遇の被災者、避難者の方たちと出会っ て、 自分だけではないのだということを知り、 ともすれば孤立し、誰にも相談 できない悩みなどを聞いてもらったり、 また話したりすることで、どれだけ救 われているかしれません。 そんな交流会を企画して下さった団体や、その間、 保育のボランティアに協力して下さった方々の存在のおかげで、 私は今まで何 とか乗り切ってこられましたし、 これからも乗り越えて行かなければならない と思っています。 1年前の私は、悩みながら「避難することは本当に正しか ったのか?」と 常にブレながら、悩みながらの避難生活でした。 でも今では、 たとえ母子避難の苦労は大きかったとしても、 それでも福島から出てこられた 私たちはまだラッキーなのかもしれないと思っています。 いろいろな事実が明 るみに出るにしたがって、 そして私を含め、避難民などと呼ばれる人がこれほ ど多くいる現実を目の当たりにして、 避難したことについての迷いは、全くと いっていいほどになくなっていきました。 むしろ「避難は正しかったのだ」と いう確信に、今では変わっています。 私と同じ年頃の乳幼児をもつご家庭のお 母さんで、 福島に住んでいて不安のないお母さんは、 私の知る限りひとりもい ません。 子どもを外遊びさせられるところを日々求めて、 また、長期休暇に はプチ避難(保養)出来る場所を探し求めているも、 ご親戚も全て福島県民と いう方も多く、ほんの少しの間でさえも福島を出られない... そんなご家庭はた くさんあるのです。 私も身動きを取れないでいた避難所にいる間の1ヶ月の間、
なんとか福島県での生活の再建をはかろうと、 相当悩みましたし、人生で最も 多く深く考えた日々でした。 今よりもまだもっと様々な情報が飛び交う中での 放射能汚染についての「不安」感、 福島での生活再建をずっと視野に入れて考 えに考え抜きましたが、 やはり結論は、「逃げられるところがあるなら、 そし て避難できる可能性があるのなら、 避難すべきだし、そうすることが子どもに
とって一番だ」というものでした。 得体のしれない不安感や恐怖の中で、 常 に心配しながら、しかもいろいろなことを制限されて生活することほど ストレ スフルなことはありません。 晴れの日、お布団は必ずお日様に当てるために外 に干していました。 それをすべて布団乾燥機に切り替える。 洗濯物もさほど広 い家でもないのに全部部屋干し。 福島では朝晩は結構涼しいので、 夏でも我 が家はエアコンを作動させることはほぼ皆無でした。 窓を開ければ風が強いの で真夏でも結構涼しく何とかしのげます。 それが、夏も冬も年中エアコン... それが当たり前の人にとってはなんでもない事なのかもしれませんが、 こんな 細かい日々の暮らしを いちいち放射能の子どもに将来あたえるかもしれないと いう影響を考えて 変えて行かなければいけないのです。上記の例はほんの生活 の一部で、それこそ、本当にいちいち、細かいことについていちいちなのです。
正直、放射能は目に見えないので、 「もう忘れて目をつぶって放射能汚染の ことはなかったことにしよう、 大丈夫なんだと思うことにしよう」としてしま う自分が容易に想像できました。 でも、我が子の事を本気で考えたら、やっぱ り妥協はできないし、本気で考えたらノイローゼになりそうだし... 本当に日々 悶々と考え続けていました。 何が嫌かというと「確実に健康被害が出るから予 防的に何か対策をとる」というのではなく、「可能性があるからこうしておいた 方が良い」という、 極めて曖昧な不安感や恐怖感のために、 生活全般の細かい ことについて神経を払うというのが、 本当に疲労困憊を招くし精神的に心底消 耗するのです。 母親だったら容易に理解できると思うのですが、 子どもに少 しでも悪いかもしれない、という選択肢を選択する人はいないと思います。 今、4歳になった息子は、 毎日のように自転車に乗って家の前の公園に出かけ ていき 一度外に出たら帰って来ません。1年前はまだ幼すぎて自転車にも乗れ なかったし、 子どもに外遊びは大切、必要とは頭では分かっているつもりでし たが、 ここまで外遊びが好きな生き物だとは恥ずかしながら考えてもいません でした。 息子が、幼稚園(でも十分外遊びさせていただいてます)から帰って すぐまた、 公園に飛び出していくのを見て、 毎日のように「大阪に来て正解だ った」と思っています。 1歳の娘は、公園で砂浴びをするのが大好きです。 お部屋に閉じこもっていられるのはゼロ歳児のほんの数カ月の間だけです。 歩 き始めたら、屋内のみの生活などおよそ不可能です。 今では毎日砂を浴び、ヨ チヨチ外をお散歩するのが大好きです。 道路はかならず側溝の上(放射性物質 がたまりやすくいわゆるホットスポットとなり易いところ)とかの道の端を歩
きますし、 歩くと必ず1回はコケます。 コケたら当然手をつきます。 今の私 は、コケて顔に怪我でもしやしないか、 それだけを心配すれば良いのです。 1歳の子どもが道路で転ぶ、当たり前の動きに対して、 いちいち放射能による 健康被害のことまで心配しなくて良いのです。 私の言っている普通の生活とは、
そんな本当に些細なことをいうのです。 震災とそれに伴う原発事故を経験し て、 私は「あたりまえ」「ふつう」の概念が変わりました。 価値観も、人生観 も、それから物事に対する評価基準も すっかり変わってしまいました。 自分 の子供たちには本当の意味での「生きる力」「生き延びる力」を つけていってほ しいと考えています。 そう教育していきたいし、今はその試練の時なのだと思 っています。 最後になりましたが、 最近読んだ本のサブタイトルがとても共 感できたのでご紹介します。 「自分の頭で考える事こそ最高の危機管理だ」 というものです。 あれほどの原発事故を引き起こしてしまったのに、 国は何 の手だても、解決策も見出せず、ましてや原因解明すらなされていないままに、
再稼動に舵を切ってしまいました。 一部の地域の国民が犠牲を払いつづけても なお、 国は何も学ばないのだと、驚愕し、心底失望しました。 私は最終的に は、「自己判断」「自己決定」「自己責任」なんだと 日々痛感しています。 被災 を通じてそのことを再認識した次第なのです。 それでも、心ある方々や、ボラ ンティアの方、地域の方々の温かいお気持ちや、 お心遣いに支えられて、日々 私たち親子は暮らしていられることに、 心の底からお礼を申し上げたいです。 本当にありがとうございます。
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東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream
避難者の「声」を全世界に届け隊係
メール sandori2014@gmail.com
by Akiko Morimatsu (written in May, 2012)
I evacuated from Koriyama city in Fukushima to Osaka after the Golden Week (a holiday period in Japan, from the end of April to the beginning of May) in 2011. I have a family of four: my husband, a four-year-and-four-month-old son, a one-year-and-eight-month-old daughter, and myself. I am here in Osaka with my two children while my husband stays in Fukushima alone to support us.
On March 11, 2011, the day of the earthquake, I was alone with my five-month-old daughter at home in an apartment on the eighth floor of a ten-storied apartment building. My daughter and I were relaxing in the afternoon as usual. My son, who had just turned three, was at the kindergarten that he was supposed to enter in April the following year but had been allowed to go since when he was two. He had got on the bus to the kindergarten at 8:00 in that morning, as usual.
At 2:46 in the afternoon, I felt an intense quake and immediately recognized it was an earthquake. First, I thought of my daughters’ safety and picked her up holding her head to protect it. It was quite different from minor quakes of level 3 or 4. The quake was also increasing its intensity, so I couldn’t keep standing. I felt, for the first time in my life, the danger of my life then. At the same time, I felt the danger of my daughter’s life, as well.
The earthquake of seismic intensity 6 lasted only for a moment, but I lost my composure and was almost panicked by the terrible sounds and intense quakes. Since I couldn’t keep myself steady due to the extremely intense quaking, I laid my daughter under a low table. My daughter who had just become five months old was laughing happily, misunderstanding the quake as something cradling her. It may seem to be simply a funny story now since her life was saved, but it was far from being funny at that time.
It was a pretty long quake. I saw, in the living room, heavy pieces of furniture like a cupboard tipping over from the wall and a sofa jumping up and down like in a slow motion film, coming close to us in the center of the room. It is frightening to recall it even now. To be honest, I thought it was something much more sinister than an earthquake, for it was so intense and terrible. The long quake filled me with so much terror that I thought it might be endless and I might be kept shaking forever.
Fortunately, neither my daughter nor I were injured. I didn’t know when the quake stopped. When I noticed, my house was full of rubble and there was no space to walk. The fear I felt, however, was not over yet. I looked at the door of the living room to find somewhere to escape, only to find water slowly coming in covering the floor like an ameba.
The apartment house was an old-fashioned, completely-electric one. Each apartment unit had a tank that could keep warm water for about two days. The tank seemed to have tipped over or had collapsed by the level-six earthquake, and the distribution pipe was cut and broken. Water streamed out from the living room to other rooms, and after an hour or so, the whole apartment was under water about ten to fifteen centimeters deep.
I took my daughter to the bedroom and laid her down on the futon bedding on the floor. After a while, water started dropping from the ceiling, walls, and beams. In short, the tanks of upper units, the ones on the 9th and 10th floors were also broken. At first, it was like leaking due to rain. Rusty-colored water was dripping in all of the rooms. I was worried about the house’s strength, for aftershocks of level 4 or so had occurred often. There was no dry and safe place where my baby daughter could lie down in the house because of the flooding and dripping water. I didn’t want the cold and dirty water to wet my daughter. Although it was still cold and a little snowy outside, I made up my mind to go out of the house. I carried my daughter on my back for the first time though she was only five months old.
I put on the baby sling, a present from someone celebrating the birth of my second child. The instruction of the baby sling said it was to be used after a baby’s head becomes stable, i.e., six months or so after birth. It was yet brand-new, and had never been used. But I tried it on anyway due to the emergency. The elevator of the apartment house had stopped. And I didn’t know how many steps I would have to go down the stairs between the eighth and first floor. So I judged it was impossible to do it holding my baby in front of me. I took the risk of carrying her on my back, praying that her head was already stable.
Besides, I had to go out to search for my son who, I thought, was at the kindergarten. I had never stopped thinking about my three-year-old son even a moment from the beginning of the quake. “The kindergarten building was newly built in the previous summer… But it was shaken by this intense earthquake… He might not be OK…” I was thinking of worst-case scenarios about him already in the middle of the earthquake. On the other hand, I was praying and trying to convince myself that the kindergarten staff were protecting him. I wasn’t able to go to the kindergarten immediately to see him, because my apartment had dripping water and I had to keep my daughter safe. When I noticed the time, two hours had passed since the earthquake had occurred. It was the time when kindergarten’s bus was usually to arrive at the apartment entrance, but it didn’t.
I didn’t want anything bad to happen to my son, but there was no safe place for him even if he came back. So I was just hesitating without knowing what to do or where to go, carrying my baby girl on my back. Then, a nursing home across the street opened its large room and kindly let people with babies in. I finally got a place to keep my child safely. Now I could go to look for my son. When I started to do so, it was before 7:00 p.m., already after dark. I was lucky enough to see the car sent by the kindergarten taking children home for their parents who couldn’t go to pick them up. At last, I got together with my son in peace. Fortunately, he was safe and sound. When he woke up to the first shock of the level-6 quake, he had been taking a daytime nap. So the quake didn’t seem to become traumatic for him, and he seemed to have no fear for earthquakes even after going through aftershocks. It might have been a blessing in disguise.
My husband had gone to work as usual in the morning, saying “I am going to go on a business trip to Sendai tonight.” It takes an hour or so from Koriyama, where we live, to Sendai by a Shinkansen “bullet train.” When the earthquake occurred, I instantly thought, “It is bad for him, if he is on a Shinkansen train now… for it stops.” I wasn’t informed of his time schedule. I got worried and wondered, “Is he already in Sendai or is he in a Shinkansen train? I wonder if I can meet him today. Above all, is he all right?” I later learned that he had finished his work at the usual time and was on the way to the Shinkansen station when the earthquake occurred. He quickly went back to the office. Fortunately he was not away from Koriyama. After straightening the chaotic office a little, he jumped in the car he had parked at the office, and came back home around at 11:00 p.m.
I wrote “Kids are OK! We are all at the nursing home across the street” on two pieces of paper with a felt pen, and pasted them on the entrance door and the mail box down on the first floor. He saw them and sought us out. Thus, we could get together in peace within the day. We experienced the life in an evacuation center for a month after that.
In this way, we lost our house and all of our household belongings. Radioactive pollution caused by the nuclear power plant accidents just after the earthquake was so serious that it was impossible to rebuild our life in Fukushima. It forced us to choose a double life in Fukushima and away in Osaka. This was in May, last year. Almost one year has passed since we came to Osaka. I still feel as if I were dreaming. I do hope to settle down, but this double life has been a burden for me. I haven’t been able to recover the stability of living ordinary days as we had had before the disaster. Although we decided to take up a double life in order to keep our young son and daughter healthy, the evacuation life has been harder than expected.
Economic weight due to maintaining a double life (double payment of our house rents and utilities) and the travel cost for my husband to come to Osaka to meet his children makes our family finances tight. However, we aren’t receiving any subsidy from the central government or a local government. This is because Koriyama, about 60 km away from the Fukushima Daiichi nuclear power plant, is out of the area designated for evacuation or an evacuation order. So our evacuation was completely “voluntary.”
Nonetheless, the numerical value of the quantity of radioactivity that Geiger counters showed in Koriyama, Fukushima prefecture, was so high that I felt like covering my eyes, even in the spots supposedly “thoroughly decontaminated.” In reality, however, playing in the sandbox in playgrounds was out of question. Even letting children go out for shopping or for kindergarten was risky. It wasn’t an environment where you were able to raise your children normally. Such a situation hasn’t changed even after a year. On the contrary, we can’t take our eyes off of the on-going reality, for even the general public carry Geiger counters now. I think things are really serious.
Mandating only expectant women and mothers with infants to evacuate might be better… I don’t remember how many times I thought so. They are wasting human resources and money only on decontamination that looks unscientific even to my amateur eyes, and just dispersing debris nationwide. I don’t think it could be more irrational. I think that taking young people (children who have futures) out of polluted areas, no matter how much money it might require, is much better than taking out debris. I believe so from the bottom of my heart.
My husband could come to see our children once a month this year - at most. Sometimes he couldn’t come for over a month. I am taking care of my children by myself, persuading myself, “This is just like the case of many families who have a father living apart in another city in Japan or abroad for business.” However, there is no such fixed term for us as for families split due to business reasons. When I consider that this situation will probably continue for a pretty long time, I get worried about its influence on our children’s mental peace. I can’t remember how often I wondered if it was good for us to go out of Fukushima this year.
Was it really right that we separated our son who loves his father very much from his father? My daughter, who was five months old at the disaster time, is growing up without knowing much about her father. Doesn’t it create any unnatural distance in the relationship between father and daughter in the future?
Above all, I worry about the mental health of my husband, who stays alone in Fukushima for our sake and can’t even see his children’s sleeping faces every day. Is he really OK? On his days off, he drives his car more than 700 km to Osaka to see them, but he doesn’t (can’t) stay here for 24 hours. He returns the same way without enough rest. Although he came all the way to see them, I yell at our children, “Your daddy is tired with his job and has driven a long way. Let him sleep!” In such a case, I wonder what I am doing.
Ever since the disaster occurred, not one of my family members has enjoyed full rest either mentally or physically. The fear of invisible radioactivity in Fukushima weighs heavily on our minds. Outside Fukushima, we are forced to live an unstable life, apart from my husband. Our ordinary lives as ordinary people living in Fukushima prefecture changed drastically after that day. However, a year after evacuation, I’m gradually trying to move forward, accepting the present state, however gradually it may indeed be.
More than a year after the disaster, while official support programs are being terminated one after another, we, a mother and two children, have managed to survive so far in Kansai. For one thing, it is because I understand that we have to accept the present state. But, above all, it’s because there are many kind people who take supportive action for disaster victims and evacuees always keeping our wellbeing in their minds.
I am really thankful to any kind of support. I am simply grateful. Let me mention the one I feel especially thankful for. My children love playing outdoors very much. However, since I am managing to live day by day, it was impossible for me to take them out somewhere even on Saturdays, Sundays, or holidays. In such a situation, volunteer college students, men and women, played with evacuee children. This kind of activity was really great. My children and I are all deeply grateful.
In summer, the students invited children to a campout. Children were very happy to play with “big brothers and big sisters.” Since I have a baby, it is impossible for me to take children out for such things as camping or playing in the river, even living in Osaka unpolluted by radiation. I am truly grateful for the young volunteers.
Although I am the only one who can take care of my children in our daily life, I am too busy managing our day-to-day life itself to provide fun and pleasure to my children. I have consequently been suffering from a guilt feeling. I feel sorry for them. But having a lot of young people play with evacuee children and being helped in various ways, we have been given great mental support and hope. We Fukushima evacuees cannot thank them too much.
In addition, members of the social welfare council helped those without male family members to transport heavy pieces of furniture. While I was unpacking after our move, childcare volunteers in the area kindly took care of my baby. Indeed, various people have helped us in so many different ways. I couldn’t be more thankful for the support given in the Kansai area. I have no words to adequately express my appreciation. I simply thank them very much from the bottom of my heart.
In the magazine for the disaster-affected people that the Osaka social welfare council publishes there was an announcement of an exchange party for the disaster-afflicted people and evacuees. I participated in it, shared common problems and worries, and could gain emotional support. I met people in the same circumstances at the party and learned I was not alone.
I can’t tell how much I am relieved to be able to talk about my problems because I sometimes feel isolated and have no one to ask for advice.
I have managed to get through this difficulty so far, owing to the supportive organization that offered the exchange party with childcare volunteers. Now, I think I have to keep managing and will be able to keep living somehow.
A year ago, I was always spending my evacuation life without confidence, asking myself, “Was evacuation really right?” But now, I think we may have been rather lucky being able to get out of Fukushima, even though the “mother and children only evacuation” has a lot of problems. As many kinds of facts come out, and as I witness the reality that there are so many people who are sometimes called “refugees” or something, my inconsistency over our decision to evacuate has disappeared almost completely. On the contrary, now, I am convinced that our evacuation has been right.
As far as I know, there are no mothers with an infant living in Fukushima who has no worries. They are always looking for a place where they can let children play outdoors. They always seek for some kind of recuperation program during longer holidays. However, some can’t get out of Fukushima even for a short time, for all of their relatives live in Fukushima…There are many such trapped families.
While I was not able to move anywhere in the evacuation center in Fukushima for a month, I contemplated considerably seriously and deeply – the most deeply in my life - about rebuilding our life in Fukushima. I was trying to figure out how we could work it out, keeping the idea of rebuilding our life in Fukushima, despite feelings of anxiety about radioactive pollution in a situation where information about it was much more confusing than now. My conclusion was, however, “If there is a place to evacuate to, and if it is possible for us to evacuate, we should do so. Doing so is the best way for our children.”
Nothing is as stressful as spending a life in indefinable worries and fears, and being regulated in a lot of ways. For example, I used to always dry futon (Japanese-style bedding) outdoors, in order to put it under sunshine. But I had to do it with a futon-drying-machine after the accident. Washed clothes also had to be dried indoors, although my house was not so large.
It is pretty cool in the morning and at night even in summer in Fukushima.
So people were able to live without air conditioners even in summer. They used to open their windows to let in fresh air. But now they have to use their air conditioners in summer after the accident. It might be nothing for those who are used to doing so. But people in Fukushima have to change such small customs one by one, considering the damage that radiation might give to children in the future. The above is nothing but a minor example in their lives. Indeed, literally one by one, each small thing has affected our lives.
Since radioactivity is invisible, it was easy, to be honest, to imagine myself saying, “Take it easy. Forget about radioactive pollution. Take it as something that didn’t happen. Things will be OK.” However, when I considered my children’s health, I couldn’t compromise. At the same time, thinking about it seriously was making me almost neurotic. Thus, I was agonizing every day.
What is most unbearably difficult is that we have to be nervous about small points in our lives in general due to quite ambiguous worries or fears. That is, the officials don’t say that you have to take preventive measures because radiation is certainly harmful to your health. They say, instead, that you’d better do it because it might be harmful. This ambiguity really shatters us and makes us mentally exhausted. I think it is easy for mothers to understand this anxiety. No mother would choose an option that looks harmful to the children if there is only a little bit of health risk.
My son, four years old now, goes out to the playground in front of our house every day. Once he goes out, he is never back until sunset. He was too young to ride a bicycle a year ago. Although I knew that playing outdoors is important for children, the embarrassing fact is, I admit, that I have never thought they love playing outside so much. My son, who is being allowed to play outdoors enough in the kindergarten, goes out again to a nearby playground soon after he is back home. Seeing him do so convinces me every single day that it was right to have come to Osaka.
My one-year-old daughter likes playing in the sand in the playground very much. Only babies can stay inside the house for some months. Once they begin to walk, it’s utterly impossible for them to spend their lives indoors only. Now, my daughter plays in the sand every day, and loves taking walks outdoors, toddling. When she goes to the street, she walks on small side ditches or the roadside, where, in radiated areas, radioactive materials tend to gather to make what is called “hot spots.” While she is walking, she stumbles at least once. Every time she does it, she naturally lands on her hands. Now in Osaka, I only have to worry if she might injure her face or not. I don’t have to worry, as I would in Fukushima, about the potential long-term health hazard caused by radioactivity in such an ordinary, common happening as a one-year-old child stumbling on the road. An “ordinary life” that I speak of is really simple.
Going through the earthquake and the subsequent nuclear power plant accidents has affected and changed my idea about what is natural and what is ordinary. My sense of value, view of life, and evaluation standard on ordinary things have drastically changed. I would like my children to acquire an ability to survive and to live on in the true sense of the term. I would like to educate them so that they can do it. We are now living in such trying times.
Last of all, please let me introduce to you the subtitle of a book I recently read that impressed me. It is “The best crisis management is to use your own mind.” Despite the fact that Japan witnessed serious nuclear power plant accidents, this nation is planning to reboot other nuclear power plants without considering alternative means or countermeasures, nor thoroughly investigating into the causes of the accident. Having noticed that this nation has learned nothing while people in certain areas are still being victimized, I am appalled and deeply disappointed. I am taking it into my heart every day that we have to eventually make our own judgment or decisions, and accept self-responsibility. I have become aware of it through the disaster experience.
Even so, my children and I are able to spend our days supported by the warm kindnesses and thoughtfulness of those who truly care: volunteers and local people in the area. I deeply appreciate them.
I thank you very much sincerely.
Akiko Morimatsu
(written in May, 2012)
■The Japanese version of the letter is below, underneath Akiko's bio
…………………………………………………………………………………….
MORIMATSU, Akiko
Akiko Morimatsu was born in Itami, Hyogo Prefecture in 1973. She and her family, her husband, a 3 year-old son and a five-month old daughter then suffered the Great East Japan Earthquake while living in Koriyama City in Fukushima Prefecture in 2011. After living in a temporary shelter for about a month, Akiko fled to Osaka with her two children in May, 2011. She could get employment through the Osaka City Earthquake Victim Support Employment Promotion and now works as a part-time office worker at the Osaka North District Council of Social Welfare.
Currently, she is representative of the Nuclear Liability Litigation Kansai Group which filed a lawsuit at Osaka District Court claiming the human right to evacuate from nuclear contaminated areas. The plaintiffs claim that the human right to live free from the fear of radiation exposure and to enjoy healthy living must be applied equally to all victims, including evacuees, returnees and those who have remained in the areas afflicted by nuclear accidents. They define their lawsuit as a lawsuit for human right relief and seek permanent disaster relief for victims of any kinds of nuclear disasters. She has been very actively engaged in her social activities to see how our society as a whole can change since 3.11.
Representing:
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream
(Association of the Evacuees from the Great East Japan Earthquake Disaster)
http://sandori2014.blog.fc2.com/blog-category-25.html
Cooperating with:
原発賠償関西弁護団
(The Kansai lawyers’ group for the nuclear liability litigation)
http://hinansha-shien.sakura.ne.jp/kansai_bengod…/index.html
Working closely with:
原発賠償関西訴訟KANSAIサポーターズ
( the nuclear liability litigation Kansai supporters)
http://kansapo.jugem.jp/
Publication:
Evacuating Fukushima with My Children: Mental Locus to Reach the Family Decision to File a Lawsuit
http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ha/0676.html
(English translation by Yoko Chase, Ph.D.)
手記 森松明希子
この手記は、さらに詳細を加筆し、震災から2年半までを綴った母子避難本と して出版されました。
『母子避難、心の軌跡~家族で訴訟を決意するまで~』 (2013年12月・かもがわ出版)

http://www .kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/ha/0676.html
【日本語版(全訳)】
森松明希子 (2012年5月・記)
私は、福島県郡山市から昨年のゴールデンウィーク明けに、 大阪に避難してき ました。 家族は、夫と、現在4歳4ヶ月の息子、1歳8ヶ月になる娘の4人家 族です。 大阪へは母子3人だけで避難して来ており、 夫は今もひとり、福島 に残って私たち妻子の為に働いてくれています。 震災当日の2011年3月1 1日、 私は当時生後5ヶ月の娘と2人きりで自宅マンションにいました。 自宅 マンションは、10階建ての8階の一室でした。 その日の午後もふだんの日常 と何ら変わらず、 娘相手にのんびりと過ごしていました。 当時3歳になったば かりの息子は、 翌月の4月に入園する予定の幼稚園に2歳の頃から通っていた 為、 こちらもふだんと変わらず、 朝8時に迎えに来る幼稚園バスに乗って幼稚 園に行っていて不在でした。 午後2時46分、 とても激しい揺れを感じた私 はすぐに地震だと気づきました。 とりあえず目の前にいる娘の安全を考え、娘 の頭を守るように抱きかかえました。 でも、震度3や4のちょっとした揺れと はまるで違い、 その揺れはどんどん激しくなる一方で、私はその場に立ってい られませんでした。 生まれて初めて、私は自分の命の危険を感じました。 と、 同時に、娘の命の危険ももちろん感じました。 震度6は一瞬冷静さを失うくら い、ほんの一瞬でしたが、パニックに陥りそうでした。 ガーッという凄まじい 音と揺れ、そしてあまりに激しい揺れで立っていられないので、 私は娘を食卓 のローテーブルの下に寝かせたのですが、 当時生後5ヶ月になったばかりの娘 は、 激しい揺れが自分を揺さぶってあやされているものと勘違いして、 キャッ キャ、キャッキャと声を上げて大喜びして笑っていました。 命が助かった今と なれば笑い話ですが、 当時はそれどころではありませんでした。 かなり長い 揺れでしたが、 リビングにいた私が目にしたのは、 食器棚などの重たい家具や ソファーが壁から離れ、 ピョン、ピョン、とまるでスローモーションのように 部屋の中央にいた娘と私の方に迫って来る様で、今思い出してもゾッとします。
正直、地震だと最初に思ったのは間違いで、 何か別のもっとすごい事が起こ っているのかと思ったくらいです。 それと、あまりに長い揺れで『終わりはな いのか?永遠に揺さぶられ続けるのかしら?』と本当に恐怖でいっぱいでした。
幸い、娘も私もケガはありませんでした。 いつ長い揺れが収まったのかは分 かりませんが、気づいた時には家中、 瓦礫の山で足の踏み場もない状態に唖然 としたのを覚えています。 でも私の味わった恐怖はこれで終わりではありませ んでした。 逃げ場を確保しようと、ふとリビングの端、ドアの方に目をやると、
廊下の辺りから水がアメーバのように滲み出ているのです。 自宅は古いタイ プのオール電化のマンションで、 各戸(室内)に2日分くらいの温水を溜めて おける大きな給水タンクが備え付けられているのですが、 そのタンクが震度6 の揺れで傾いたり倒れたりしたらしく、配水管も切断、破壊したことによって、
地震発生から1時間後くらいには、 自宅のリビングから各部屋に水が流れ出し て、 全部屋が水に浸かってしまいました(水深10~15センチくらい)。 娘 は布団を敷いた寝室に避難させていたのですが、 そうこうするうちに今度は天 井からも、 ようするに、9、10 階の上階にある部屋も同様にタンクが倒れて浸 水し、 その水が漏れて壁や梁の隙間から水が降ってきました。 はじめは雨漏 りのような感じで、 赤茶色のおかしな色の水がポタポタと全部屋から落ちて来 て、 まだ震度4くらいの余震も頻繁に起こる中、 私はマンションの強度が心配 になりました。 しかも浸水と上から降ってくる水漏れで、 もう0歳の娘を寝 かせておける乾いた安全な場所が 自宅には何処を探してもありませんでした。
まだ寒い季節で娘を濡らすわけにはいかないので、 外は小雪が舞っていまし たが、 もう家を出るしかないと決意し、 生後5ヶ月にして初めて娘を“おんぶ” しました。 第2子出産のお祝いで頂いていたおんぶヒモは、 「首が据わる生 後6ヶ月頃からの使用可」と書かれており、 頂いたままの新品でまだ着用した ことがありませんでしたが、 私は一か八かで娘を背負ってみました。 何しろエ レベーターの停止したマンションの8階から 何回階段を上り下りする事になる か分からなかったので、 『前抱きのスリングでは無理!』と判断して、 娘の首 がどうか据わってて...と祈るような気持ちでエイヤァっと娘をおぶりました。
それに幼稚園にいるであろう息子を、 自分の足で捜索にも行かなければなりま せんので... 当時3歳になったばかりの息子の事を 地震の揺れの瞬間から一時 も忘れてはいませんでした。 園舎は確か前の夏に新築したばかり... でもこの 揺れだし... ダメならダメかもしれない... 揺れている最中から、息子の生命も覚
悟していました。 幼稚園の先生が守ってくれている(はず)と信じて、 祈るよ うな気持ちでいました。 自宅が水没して下の娘の安全確保やらで、幼稚園へは すぐに向かえずにいました。 気がつけば地震から約2時間が経過し、 午後4時 半の送迎バスの時刻となっていましたが、 ふだんは自宅マンション前までやっ てくる園バスはもちろんやってきませんでした。 息子と行き違いになってはい けないし、 また、息子が帰って来ても自宅に安全な居場所はないしで、 私は余 震が頻繁に起こる中、 娘をおぶってオロオロしていたら、 自宅マンションの前 にあった保育園が広間を開放して下さり、 そこへ「乳幼児を連れている人はお いで」と言っていただけました。 子どもたちにとって安全な場所を確保するこ とが出来たので、 やっと息子を捜しに行ける、探しに行こうとしたのが夜の7 時前で、 辺りは真っ暗になっていました。 幼稚園の先生がお迎えに行けてい ない園児の為に、 1 軒 1 軒園児の自宅まで送り届けて下さる車に運良く遭遇出 来たので、 やっと息子とも無事に再会が果たせました。 息子は幸いにもケガ はなく、 ちょうどお昼寝時間中に震度6の揺れがあったため、 その揺れで目が 覚めたという感じで、 地震の揺れ自体がトラウマになるという事もなく、 むし ろその後の余震を体験し「自分は地震は全然怖くないんだ!」 と思っているよ うで、それは不幸中の幸いだったのかもしれません。 夫はその日「夜は仙台に 出張だから」と言って、 早朝いつもどおり出勤していきました。 私たちの住ん でいた郡山は、仙台まで新幹線で1時間くらいの所にあります。 地震発生時、 瞬間的に『新幹線は止まってしまうだろうから乗ってたらまずいな』と思いま した。 ただ、何時の新幹線で仙台に向かっているのかも聞いていなかったし、 それこそもう仙台にいたり新幹線に乗っている途中だったら、 今日中に夫に会 えるだろうか?そもそも夫は無事なのかしら?と心配しました。 夫は通常勤務 を終えて、 新幹線に乗るために駅に向かって歩いている道路上で地震にあった そうで、 すぐに職場に歩いて戻ったらしく、 幸い郡山市から離れてはいません でした。 被災した職場の片づけをしたあとに、 勤務先に停めていた自分の車 に乗って 夜中の11時頃に自宅マンションに戻って来ました。 自宅の玄関ド アと一階のロビーの郵便ポストのところに、 「子供たちは無事!皆でマンショ ン前の○○保育園にいます」と、マジックで書いた紙を貼り付けておいたので、
それを見て夫は私たちの居場所を何とか探し当て、 私たち家族はかろうじてそ の日のうちに家族四人、 全員無事に再会を果たすことができました。 その日 から約1ヶ月の間、私達家族は避難所暮らしも経験しました。 そんなわけで、
私たちは震災で自宅と家財道具のすべてを失ってしまいました。 そして、震災 直後の原発事故による放射能汚染が深刻で、 福島での生活再建をすることがで きず、やむをえず家族バラバラの福島・大阪の二重生活をする道を選びました。
それが昨年の5月のことです。 大阪に避難してきてちょうど1年が経とうと していますが、 まだ夢の中にいるようで、 早く地に足の着いた生活を送りたい と切に願っているのですが、 やはり、この二重生活が自分の中では様々な負担 となっているようで、 なかなか落ち着いた生活、震災前の普通の日常を取り戻 すには至っていません。 幼い息子と娘の健康を考えて決意した二重生活ですが
想像以上に厳しい避難生活が続いています。 二重世帯の維持(家賃、光熱費 の2重払い)と 夫が幼い子どもたちに会いに来る為の移動交通費がかさんで、 経済的負担が家計を圧迫しています。 ですが原発から60キロメートルほど離 れている郡山市は、 特に避難勧告や避難指示が出されるわけでもなく、 全くの 「自主避難」であるため、 国や自治体からは何の補助も受けていません。 し かし福島県郡山市は、精一杯除染した所でさえも 放射能量測定器の示す値は目 を覆いたくなる数値を示しており、現実は公園での砂場遊びなどもってのほか、
子どもたちを買い物や通園であっても 少しでも外に出すのも恐ろしく、 普通 に子育てを出来る環境とはとても言えません。 一年経ってもその現状は何ら変 わらず、 むしろ個人レベルで測定器を持っているため、 現実から目を背ける事 も出来るはずもなく、 本当に事態は深刻だと思うのです。 いっそ、妊婦さん や乳幼児のいる家庭だけでも 強制的に避難退去命令を出してくれたらいいのに ... と、何度思ったか知れません。 素人目にも非科学的だと思われる除染作業 にばかり マンパワーとお金をつぎ込んで、ガレキをせっせと全国にまき散らす など 非合理的なことこの上ないと思うのです。 汚染地帯からはガレキを運 び出すより、 「人」(将来のある子どもたち)を、 それこそいくらお金を積ん でも出すべきだと 切実に思います。 夫はこの1年、 月に一度、子どもたち に会えれば良い方で、 1ヶ月以上会えない時もありました。 『単身赴任や海 外赴任のお父さんを持つご家庭と同じなんだ!』と 自分に言い聞かせて日々の 子育てをしていますが、 「いつまで」という任期があるわけでなく、 おそらく 相当長期に渡ってこの生活が続くと考えると、 子どもの精神面での影響が心配 で、 本当に福島を出て来て良かったのかしら...と この1年、何度悩んだかしれ ません。 お父さんが大好きな息子を引き離してしまったのは本当に正しかった のか? まだ震災当時、生後5ヶ月だった娘はほぼ父親を知らないで育ってしま
って 今後の父娘関係に影響は出ないだろうか? なによりも、 家族の為にたっ たひとりで福島に残って 子どもの寝顔さえ毎日見る事が出来ない生活をしてい る夫の精神状態は本当に大丈夫なのだろうか? 休みがあれば、700キロ以上 離れた大阪まで1人高速道路を車で飛ばして子どもたちに会いに来て、 大阪で は24時間も滞在しない(できない)で、また同じ道をろくに休まずに運転し て戻る... せっかく会いに来てくれた夫ですが、 子どもたちには「お父さんはお 仕事と運転で疲れてるから寝かせてあげて!」と 声を上げる私は母親として何 をやってるんだろう???とか... 震災以降、親子共々、心も身体も休まるとこ ろがありませんでした。
福島に残れば目に見えない放射能の恐怖におびえ、 出たら出たで、不安定な生 活と家族バラバラの日常を強いられる・・・ 普通の福島県民としての暮らしが あの日以来、一変してしまいました。 それでも避難して丸一年が経ち、 本 当に徐々にですが、この現状を受け入れ、 前を向いて歩いていこうとはしてい ます。 震災から一年以上経過し、公的支援もどんどん打ち切られていく中で、
「現状を受け入れるしかない」ということもちろんありますが、 関西に避難し て今まで母子3人で何とかやってこられたのは、 いまだ被災者、避難者の事を 忘れず 心にとどめて下さっている方々がいてくださるおかげです。 どのよう な支援も、本当にありがたく、感謝するばかりなのです。 特にありがたかった ご支援を具体的に申し上げますと、 例えば、 外遊びが大好きな子どもたちです が、 日々の生活がやっとで、 土日や休日でも子どもたちをどこかに連れて行っ てあげるなど 全く出来ませんでした。 そのような中、大学生のボランティア のお兄さんやお姉さんが 子供たちと遊んでくれるという企画などは、親子共々、 心底ありがたかったです。 また、夏にはキャンプなどに子ども達を招待してく ださり、 子どもたちは、大きいお兄さんやお姉さんと遊んでもらえたら 本当に 喜びますし、せっかく放射能汚染のない大阪に来たのにキャンプや川遊びとか、
赤ん坊を抱えてでは、私ひとりではさせてあげられないので、 本当にありがた く思います。 また、普段子どもたちと関わってあげられる大人は私ひとりきり なのに、 日々の生活を回すのが精一杯で、 子どもたちにはあまり構ってあげら れないのが可哀想で、心苦しく思っていたのですが、皆様のお力をお借りして、
また、たくさんの方々に子どもたちとふれあっていただけたら、 それが母子避 難をしている私たち親子にとって、なによりの一番望んでいる支援となります。 本当にありがとうございます。 他にも、 引越しでも男手がなく大きな家具を
運搬することもままならない状況に、 社会福祉協議会の方が手を貸してくださ ったり、 引越し荷物の片付けなどをする間、 赤ちゃんの面倒を地域の保育ボラ ンティアの方が見てくださったり...と、本当に様々な方々に様々な方法で、色々 助けていただきました。 関西で受けたご支援には、本当に感謝してもし足りな いくらいで、 なんとお礼を申し上げて良いかわからないくらいです。 本当にあ りがとうございました。 また、社協の方が届けてくださる被災者向けの情報誌 で、 被災者・避難者の交流会があることも知ってからは、 そちらに参加させて いただき、苦労や悩みを分かち合うことができ、 それが私の心の拠り所、心の 支えとなっています。 交流会で、同じ境遇の被災者、避難者の方たちと出会っ て、 自分だけではないのだということを知り、 ともすれば孤立し、誰にも相談 できない悩みなどを聞いてもらったり、 また話したりすることで、どれだけ救 われているかしれません。 そんな交流会を企画して下さった団体や、その間、 保育のボランティアに協力して下さった方々の存在のおかげで、 私は今まで何 とか乗り切ってこられましたし、 これからも乗り越えて行かなければならない と思っています。 1年前の私は、悩みながら「避難することは本当に正しか ったのか?」と 常にブレながら、悩みながらの避難生活でした。 でも今では、 たとえ母子避難の苦労は大きかったとしても、 それでも福島から出てこられた 私たちはまだラッキーなのかもしれないと思っています。 いろいろな事実が明 るみに出るにしたがって、 そして私を含め、避難民などと呼ばれる人がこれほ ど多くいる現実を目の当たりにして、 避難したことについての迷いは、全くと いっていいほどになくなっていきました。 むしろ「避難は正しかったのだ」と いう確信に、今では変わっています。 私と同じ年頃の乳幼児をもつご家庭のお 母さんで、 福島に住んでいて不安のないお母さんは、 私の知る限りひとりもい ません。 子どもを外遊びさせられるところを日々求めて、 また、長期休暇に はプチ避難(保養)出来る場所を探し求めているも、 ご親戚も全て福島県民と いう方も多く、ほんの少しの間でさえも福島を出られない... そんなご家庭はた くさんあるのです。 私も身動きを取れないでいた避難所にいる間の1ヶ月の間、
なんとか福島県での生活の再建をはかろうと、 相当悩みましたし、人生で最も 多く深く考えた日々でした。 今よりもまだもっと様々な情報が飛び交う中での 放射能汚染についての「不安」感、 福島での生活再建をずっと視野に入れて考 えに考え抜きましたが、 やはり結論は、「逃げられるところがあるなら、 そし て避難できる可能性があるのなら、 避難すべきだし、そうすることが子どもに
とって一番だ」というものでした。 得体のしれない不安感や恐怖の中で、 常 に心配しながら、しかもいろいろなことを制限されて生活することほど ストレ スフルなことはありません。 晴れの日、お布団は必ずお日様に当てるために外 に干していました。 それをすべて布団乾燥機に切り替える。 洗濯物もさほど広 い家でもないのに全部部屋干し。 福島では朝晩は結構涼しいので、 夏でも我 が家はエアコンを作動させることはほぼ皆無でした。 窓を開ければ風が強いの で真夏でも結構涼しく何とかしのげます。 それが、夏も冬も年中エアコン... それが当たり前の人にとってはなんでもない事なのかもしれませんが、 こんな 細かい日々の暮らしを いちいち放射能の子どもに将来あたえるかもしれないと いう影響を考えて 変えて行かなければいけないのです。上記の例はほんの生活 の一部で、それこそ、本当にいちいち、細かいことについていちいちなのです。
正直、放射能は目に見えないので、 「もう忘れて目をつぶって放射能汚染の ことはなかったことにしよう、 大丈夫なんだと思うことにしよう」としてしま う自分が容易に想像できました。 でも、我が子の事を本気で考えたら、やっぱ り妥協はできないし、本気で考えたらノイローゼになりそうだし... 本当に日々 悶々と考え続けていました。 何が嫌かというと「確実に健康被害が出るから予 防的に何か対策をとる」というのではなく、「可能性があるからこうしておいた 方が良い」という、 極めて曖昧な不安感や恐怖感のために、 生活全般の細かい ことについて神経を払うというのが、 本当に疲労困憊を招くし精神的に心底消 耗するのです。 母親だったら容易に理解できると思うのですが、 子どもに少 しでも悪いかもしれない、という選択肢を選択する人はいないと思います。 今、4歳になった息子は、 毎日のように自転車に乗って家の前の公園に出かけ ていき 一度外に出たら帰って来ません。1年前はまだ幼すぎて自転車にも乗れ なかったし、 子どもに外遊びは大切、必要とは頭では分かっているつもりでし たが、 ここまで外遊びが好きな生き物だとは恥ずかしながら考えてもいません でした。 息子が、幼稚園(でも十分外遊びさせていただいてます)から帰って すぐまた、 公園に飛び出していくのを見て、 毎日のように「大阪に来て正解だ った」と思っています。 1歳の娘は、公園で砂浴びをするのが大好きです。 お部屋に閉じこもっていられるのはゼロ歳児のほんの数カ月の間だけです。 歩 き始めたら、屋内のみの生活などおよそ不可能です。 今では毎日砂を浴び、ヨ チヨチ外をお散歩するのが大好きです。 道路はかならず側溝の上(放射性物質 がたまりやすくいわゆるホットスポットとなり易いところ)とかの道の端を歩
きますし、 歩くと必ず1回はコケます。 コケたら当然手をつきます。 今の私 は、コケて顔に怪我でもしやしないか、 それだけを心配すれば良いのです。 1歳の子どもが道路で転ぶ、当たり前の動きに対して、 いちいち放射能による 健康被害のことまで心配しなくて良いのです。 私の言っている普通の生活とは、
そんな本当に些細なことをいうのです。 震災とそれに伴う原発事故を経験し て、 私は「あたりまえ」「ふつう」の概念が変わりました。 価値観も、人生観 も、それから物事に対する評価基準も すっかり変わってしまいました。 自分 の子供たちには本当の意味での「生きる力」「生き延びる力」を つけていってほ しいと考えています。 そう教育していきたいし、今はその試練の時なのだと思 っています。 最後になりましたが、 最近読んだ本のサブタイトルがとても共 感できたのでご紹介します。 「自分の頭で考える事こそ最高の危機管理だ」 というものです。 あれほどの原発事故を引き起こしてしまったのに、 国は何 の手だても、解決策も見出せず、ましてや原因解明すらなされていないままに、
再稼動に舵を切ってしまいました。 一部の地域の国民が犠牲を払いつづけても なお、 国は何も学ばないのだと、驚愕し、心底失望しました。 私は最終的に は、「自己判断」「自己決定」「自己責任」なんだと 日々痛感しています。 被災 を通じてそのことを再認識した次第なのです。 それでも、心ある方々や、ボラ ンティアの方、地域の方々の温かいお気持ちや、 お心遣いに支えられて、日々 私たち親子は暮らしていられることに、 心の底からお礼を申し上げたいです。 本当にありがとうございます。
※全世界に広くシェアされることを希望します。
記事の無断転記・転載・翻訳は大歓迎です。
出来るだけ多くの方に知って頂きたいのでご支援・ご協力をお願い申し上げます。
転記、転載、翻訳記事もまたブログ上でアップして広めたいので是非お知らせ下さい。
よろしくお願いいたします。
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream
避難者の「声」を全世界に届け隊係
メール sandori2014@gmail.com
避難者交流会Cafe IMONIKAI(6月)@大阪市社協のご案内(子連れOK・参加費不要)
避難者交流会Cafe IMONIKAI(6月)@大阪市社協のご案内(子連れOK・参加費不要)です。
毎月大阪で、たとえ参加者が少なくても、
必要としている避難者がいる限り、
細く長く続けてくださるという主催者さまのご意向により、
2012年夏〜毎月第4水曜日、
一日お部屋を開放し、自由に避難者が集える「場」をご提供くださっています。
サンドリメンバーも、毎回、一度も欠かさず通っている避難者がいます。
とても自由な雰囲気で、
避難者が震災のこと、避難のこと・・・
本当の思いを各々自由に話せる
3.11避難当事者がホッとできる素敵な「場所」です。
初めてでも大いに歓迎していただけますし、
何も話さなくても、聞くだけの方もおられます。
色々な情報も得られますし、また、避難者の思いも、
ご支援の方々に伝えることも出来ますし、
本当にオススメ出来る交流会の一つです。
【避難者交流会Cafe IMONIKAIのご案内(保育あり)】
日 時:平成27年6月24日(水) 10:00~15:00
(途中からの参加、途中退室も可能です)
※昼食は各自でご用意ください
場 所:大阪市立社会福祉センター
(地下鉄「谷町九丁目」駅、近鉄「大阪上本町」駅11番出口)
主催/申込み:大阪市ボランティア・市民活動センター
電話またはメールにて
電話06-6765-4041・メールimonikai@osakacity-vnet.or.jp
(名前・年齢・〒・住所・TELを添えてお申込ください。)
※今月より、サンドリも午後13−15時の間、
避難当事者コーナーを設けて
お手伝い参加させていただくことになりました!
☆3.11避難者の皆さまへ☆
何かお手伝い出来る事はないかしら?
避難してきた自分に出来ることはないかしら?
支援頂いた4年間に感謝して今度は自分にできる社会へのご恩返しはないかしら?
とお考えの避難者の皆さん、
是非、お手伝い参加のご協力、お願いいたします。
参加しながら、徐々にお手伝い参加ということも可能です。
(というより、ほぼ、参加者と変わりないような参加の形態ですので、
特別難しいことは何もありません。)
当日、サンドリメンバーがいますので、
お気軽にお声がけください(^^)
毎月大阪で、たとえ参加者が少なくても、
必要としている避難者がいる限り、
細く長く続けてくださるという主催者さまのご意向により、
2012年夏〜毎月第4水曜日、
一日お部屋を開放し、自由に避難者が集える「場」をご提供くださっています。
サンドリメンバーも、毎回、一度も欠かさず通っている避難者がいます。
とても自由な雰囲気で、
避難者が震災のこと、避難のこと・・・
本当の思いを各々自由に話せる
3.11避難当事者がホッとできる素敵な「場所」です。
初めてでも大いに歓迎していただけますし、
何も話さなくても、聞くだけの方もおられます。
色々な情報も得られますし、また、避難者の思いも、
ご支援の方々に伝えることも出来ますし、
本当にオススメ出来る交流会の一つです。
【避難者交流会Cafe IMONIKAIのご案内(保育あり)】
日 時:平成27年6月24日(水) 10:00~15:00
(途中からの参加、途中退室も可能です)
※昼食は各自でご用意ください
場 所:大阪市立社会福祉センター
(地下鉄「谷町九丁目」駅、近鉄「大阪上本町」駅11番出口)
主催/申込み:大阪市ボランティア・市民活動センター
電話またはメールにて
電話06-6765-4041・メールimonikai@osakacity-vnet.or.jp
(名前・年齢・〒・住所・TELを添えてお申込ください。)
※今月より、サンドリも午後13−15時の間、
避難当事者コーナーを設けて
お手伝い参加させていただくことになりました!
☆3.11避難者の皆さまへ☆
何かお手伝い出来る事はないかしら?
避難してきた自分に出来ることはないかしら?
支援頂いた4年間に感謝して今度は自分にできる社会へのご恩返しはないかしら?
とお考えの避難者の皆さん、
是非、お手伝い参加のご協力、お願いいたします。
参加しながら、徐々にお手伝い参加ということも可能です。
(というより、ほぼ、参加者と変わりないような参加の形態ですので、
特別難しいことは何もありません。)
当日、サンドリメンバーがいますので、
お気軽にお声がけください(^^)
6/5ホッとネットおおさか事務局会議参加報告と次回予定
6月5日(金)ホッとネットおおさか事務局会議に
3.11避難当事者として出席させていただきました。
次回、ホッとネットおおさか事務局会議は
6月29日(月)10〜12時@大阪市社協
次回、ホッとネットおおさか定例会は
7月9日(木)13時半〜16時@大阪弁護士会館10F
に参加を予定しています。
3.11避難当事者として出席させていただきました。
次回、ホッとネットおおさか事務局会議は
6月29日(月)10〜12時@大阪市社協
次回、ホッとネットおおさか定例会は
7月9日(木)13時半〜16時@大阪弁護士会館10F
に参加を予定しています。
6月20日(土)『文化講演会』 さらなる原発震災への警鐘-日本列島の地震と原発を考える-@河合塾上本町校
河合塾が「文化講演会」を開催されるそうです。
詳細はコチラ
↓
開催日時 2015年6月20日(土)13:40~15:10
会場 河合塾上本町校
(大阪市天王寺区上汐3-1-11 地下鉄谷町九丁目すぐ)
講演者 石橋 克彦 (神戸大学名誉教授)
1944年神奈川県生まれ。2008年3月まで神戸大学教授。専門は地震学、歴史地震学。
原子力安全委員会専門委員、国会福島原発事故調査委員会委員などを歴任。
著書に『大地動乱の時代』(岩波新書)、『原発震災』(七つ森書館)、
『南海トラフ巨大地震』(岩波書店)などがある。
司会者
神坂 直樹 (小論文講師)
大今 歩 (日本史講師)
参加費 無料 (申し込み不要)
参加対象 高卒生・高校生・中学生・保護者・大学生・一般(社会人)
※塾生以外の方も可
お問い合わせ 上本町校 0120-070-953
主催 学校法人 河合塾
2011年、東北沖の巨大地震と大津波によって、福島第一原発事故が起こりました。事故から4年が過ぎましたが、核心部分の状況はまったく不明で、事故収束の見通しは立っていません。さらに、今も10万人を超える人々が避難生活を余儀なくされています。 日本列島は4つのプレートがぶつかり合う地震多発地帯です。そして、1995年の阪神・淡路大震災後は地震活動期に入っているとして、「原発震災」(地震による原発事故の放射能災害と通常の震災とが複合する破局的災害)に警鐘を鳴らしてこられたのが、石橋克彦さんです。 ところが、国や電力会社が、石橋さんの警告を無視して、地震・津波対策を怠ったため、まさしく「原発震災」である福島第一原発事故が起こってしまいました。 石橋さんは、今後、南海トラフ巨大地震が起きること、また、首都圏・内陸・日本海側でも大地震が起こる可能性があることを警告して、都市への人口集中を改めることや経済成長至上主義からの脱却を提唱しておられます。 昨年以降、原子力規制委員会は、鹿児島県川内原発1、2号機と福井県高浜原発3、4号機の再稼働を容認してきました。そして、今年4月14日、福井地裁が高浜原発の再稼働差し止めを命じる仮処分を決定しましたが、同月22日、鹿児島地裁は川内原発の再稼働差し止め申請を却下する決定をしました。 迫りくる巨大地震と原発再稼働の是非について、石橋さんのお話を聞いて考えたいと思います。
※ 参加申し込みの必要はございませんが、当日の参加状況次第では、人数制限を設けさせていただく場合もございます。
(参照)http://www.kawai-juku.ac.jp/event/e-detail.php?eventNum=0000033616&grade=33&area=5
■3.11避難者の皆さまへ■
ご参加された皆さま、ご感想などお寄せ下さい。
サンドリ代表メール sandori2014@gmail.com
詳細はコチラ
↓
開催日時 2015年6月20日(土)13:40~15:10
会場 河合塾上本町校
(大阪市天王寺区上汐3-1-11 地下鉄谷町九丁目すぐ)
講演者 石橋 克彦 (神戸大学名誉教授)
1944年神奈川県生まれ。2008年3月まで神戸大学教授。専門は地震学、歴史地震学。
原子力安全委員会専門委員、国会福島原発事故調査委員会委員などを歴任。
著書に『大地動乱の時代』(岩波新書)、『原発震災』(七つ森書館)、
『南海トラフ巨大地震』(岩波書店)などがある。
司会者
神坂 直樹 (小論文講師)
大今 歩 (日本史講師)
参加費 無料 (申し込み不要)
参加対象 高卒生・高校生・中学生・保護者・大学生・一般(社会人)
※塾生以外の方も可
お問い合わせ 上本町校 0120-070-953
主催 学校法人 河合塾
2011年、東北沖の巨大地震と大津波によって、福島第一原発事故が起こりました。事故から4年が過ぎましたが、核心部分の状況はまったく不明で、事故収束の見通しは立っていません。さらに、今も10万人を超える人々が避難生活を余儀なくされています。 日本列島は4つのプレートがぶつかり合う地震多発地帯です。そして、1995年の阪神・淡路大震災後は地震活動期に入っているとして、「原発震災」(地震による原発事故の放射能災害と通常の震災とが複合する破局的災害)に警鐘を鳴らしてこられたのが、石橋克彦さんです。 ところが、国や電力会社が、石橋さんの警告を無視して、地震・津波対策を怠ったため、まさしく「原発震災」である福島第一原発事故が起こってしまいました。 石橋さんは、今後、南海トラフ巨大地震が起きること、また、首都圏・内陸・日本海側でも大地震が起こる可能性があることを警告して、都市への人口集中を改めることや経済成長至上主義からの脱却を提唱しておられます。 昨年以降、原子力規制委員会は、鹿児島県川内原発1、2号機と福井県高浜原発3、4号機の再稼働を容認してきました。そして、今年4月14日、福井地裁が高浜原発の再稼働差し止めを命じる仮処分を決定しましたが、同月22日、鹿児島地裁は川内原発の再稼働差し止め申請を却下する決定をしました。 迫りくる巨大地震と原発再稼働の是非について、石橋さんのお話を聞いて考えたいと思います。
※ 参加申し込みの必要はございませんが、当日の参加状況次第では、人数制限を設けさせていただく場合もございます。
(参照)http://www.kawai-juku.ac.jp/event/e-detail.php?eventNum=0000033616&grade=33&area=5
■3.11避難者の皆さまへ■
ご参加された皆さま、ご感想などお寄せ下さい。
サンドリ代表メール sandori2014@gmail.com
6月6日(土)第2回近畿訴訟団交流会のお知らせ
3.11避難者の皆さまへ
関西方面へ避難をした避難者の方で、
「避難の権利」を求める裁判にご興味・ご関心のある方、
この裁判を応援したいなと思われる方は、
KANSAIサポーターズに登録をお薦めします。
(サポーターズ登録は無料です。
「避難の権利」関連の裁判に関する情報がタイムリーに流れてきますので
避難者の方にはオススメです。)
また、京都、兵庫、大阪に避難をして
実際原告となって裁判に臨んでいる沢山の避難者が一堂に会します。
是非下記の集まりにふるってご参加下さい。
(避難者は諸事情を考慮してくださり、原告・サポーターとも無料でご参加いただけます。)
※お子様連れでも大丈夫です。
(原告自体が赤ちゃん〜年配の方まで、老若男女問わずおられますので!)
保育態勢もございますので、同伴されるお子様の年齢・お名前をお知らせ下さい。
お申込・お問合わせ kansaisapo@gmail.com
≪KANSAIサポーターズ事務局より≫
第2回近畿訴訟団交流会の案内です。
近畿訴訟団交流会は、
京都訴訟、関西訴訟、ひょうご訴訟の
原告、弁護団、サポーターが一度に集まる機会です。
この機会にお互いの顔を知る事ができたり、
情報共有ができるようになるきっかけにもなると思います。
原告の皆さん、弁護団の先生方、サポーターの皆さん、是非、参加してください。
原告の方は、担当弁護士の先生に連絡してもらう事になっていますが、
KANSAIサポーターズ、でも受付けますので、連絡ください。
サポーターズの方は、下記の申込み方法でご連絡ください。
■日時■
2015年6月6日(土)13時~16時半
■場所■
ドーンセンター1階パフォーマンススペース
大阪市中央区大手前1丁目3番49号
https://www.dawncenter.or.jp/shisetsu/map.html
■スケジュール■
12:00 受付開始
13;00 開会(全国情勢報告、各訴訟団報告)
14:30 乾杯・懇親会(軽食と飲み物を準備します)
16:30 閉会
■費用■
原告・避難者 無料
サポーター 2000円
弁護団 3000円
■申込み■
kansaisapo★gmail.com (★を@に変えてください)
電話 070-5658-9566
上記に参加者される方の氏名をお書きの上、お申込みください。
■主催■
関西訴訟原告団、関西訴訟弁護団、KANNSAIサポーターズ
関西方面へ避難をした避難者の方で、
「避難の権利」を求める裁判にご興味・ご関心のある方、
この裁判を応援したいなと思われる方は、
KANSAIサポーターズに登録をお薦めします。
(サポーターズ登録は無料です。
「避難の権利」関連の裁判に関する情報がタイムリーに流れてきますので
避難者の方にはオススメです。)
また、京都、兵庫、大阪に避難をして
実際原告となって裁判に臨んでいる沢山の避難者が一堂に会します。
是非下記の集まりにふるってご参加下さい。
(避難者は諸事情を考慮してくださり、原告・サポーターとも無料でご参加いただけます。)
※お子様連れでも大丈夫です。
(原告自体が赤ちゃん〜年配の方まで、老若男女問わずおられますので!)
保育態勢もございますので、同伴されるお子様の年齢・お名前をお知らせ下さい。
お申込・お問合わせ kansaisapo@gmail.com
≪KANSAIサポーターズ事務局より≫
第2回近畿訴訟団交流会の案内です。
近畿訴訟団交流会は、
京都訴訟、関西訴訟、ひょうご訴訟の
原告、弁護団、サポーターが一度に集まる機会です。
この機会にお互いの顔を知る事ができたり、
情報共有ができるようになるきっかけにもなると思います。
原告の皆さん、弁護団の先生方、サポーターの皆さん、是非、参加してください。
原告の方は、担当弁護士の先生に連絡してもらう事になっていますが、
KANSAIサポーターズ、でも受付けますので、連絡ください。
サポーターズの方は、下記の申込み方法でご連絡ください。
■日時■
2015年6月6日(土)13時~16時半
■場所■
ドーンセンター1階パフォーマンススペース
大阪市中央区大手前1丁目3番49号
https://www.dawncenter.or.jp/shisetsu/map.html
■スケジュール■
12:00 受付開始
13;00 開会(全国情勢報告、各訴訟団報告)
14:30 乾杯・懇親会(軽食と飲み物を準備します)
16:30 閉会
■費用■
原告・避難者 無料
サポーター 2000円
弁護団 3000円
■申込み■
kansaisapo★gmail.com (★を@に変えてください)
電話 070-5658-9566
上記に参加者される方の氏名をお書きの上、お申込みください。
■主催■
関西訴訟原告団、関西訴訟弁護団、KANNSAIサポーターズ
【募集】3.11避難者の皆さまへ〜関西の高校生に「伝えたい」避難者大募集!(ご協力のお願い)
3.11避難者の皆さまへ
【サンドリおはなし隊】からのご案内です。
在阪の高校生に、3.11を伝える、避難の選択、避難者の「今」など、
避難者が伝えたいことを伝える機会があります。
避難先の関西で、「伝えたい」がある避難者、
「伝えるべきこと」があると思っておられる避難者の方
お話してみたい、被災地から少し離れた関西の若者に伝えようと
思って下さる避難者の方を大募集します。
50〜100人の高校生が集まるそうです。
100人を前に講演するのではなく、
グループに分けてざっくばらんに色々なお話しをする、
というようなスタイルを現在企画中です。
ご興味・ご関心のある方、是非、参加協力をお願い致します。
開催予定日:2015年8月23日(日)
場所:大阪府高槻市近辺
ご協力頂ける避難者の方、追って詳細をご案内致します。
お申込み・お問合わせ sandori2014@gmail.com
※メールタイトルに【おはなし隊・8月23日協力】とご記入下さい。
【サンドリおはなし隊】からのご案内です。
在阪の高校生に、3.11を伝える、避難の選択、避難者の「今」など、
避難者が伝えたいことを伝える機会があります。
避難先の関西で、「伝えたい」がある避難者、
「伝えるべきこと」があると思っておられる避難者の方
お話してみたい、被災地から少し離れた関西の若者に伝えようと
思って下さる避難者の方を大募集します。
50〜100人の高校生が集まるそうです。
100人を前に講演するのではなく、
グループに分けてざっくばらんに色々なお話しをする、
というようなスタイルを現在企画中です。
ご興味・ご関心のある方、是非、参加協力をお願い致します。
開催予定日:2015年8月23日(日)
場所:大阪府高槻市近辺
ご協力頂ける避難者の方、追って詳細をご案内致します。
お申込み・お問合わせ sandori2014@gmail.com
※メールタイトルに【おはなし隊・8月23日協力】とご記入下さい。
2015/06/07(日)映画「日本と原発」上映会&河合弘之弁護士ご講演@大阪府高槻市(上映1回)
■ 2015/06/07 大阪府高槻市(上映1回)
■ 主催:「子ども脱被ばく裁判」を支える会・西日本高槻
○ 上映日時:2015年6月7日(日) 18 時 ~
※河合弘之監督の講演あり 20 時 15分 ~
○ 会場名:高槻市民交流センター(大阪府高槻市紺屋町1-2)
○ 各定員:140名
○ 問合せ先:「子ども脱被ばく裁判」を支える会・西日本 高槻(水戸)
TEL :072-683-0404
(参照)http://www.nihontogenpatsu.com/event
■ 主催:「子ども脱被ばく裁判」を支える会・西日本高槻
○ 上映日時:2015年6月7日(日) 18 時 ~
※河合弘之監督の講演あり 20 時 15分 ~
○ 会場名:高槻市民交流センター(大阪府高槻市紺屋町1-2)
○ 各定員:140名
○ 問合せ先:「子ども脱被ばく裁判」を支える会・西日本 高槻(水戸)
TEL :072-683-0404
(参照)http://www.nihontogenpatsu.com/event
【避難者の感想】私たちは原発で幸せですか?ー映画「日本と原発」は 是非見て欲しいと断言いたします!
5月30日(土)第68期司法修習生7月集会 プレ企画
「私たちと原発~風化させない決意を込めて」
@京都教育文化センターでのシンポジウムで
映画「日本と原発」を観ての感想です。
↓
やっぱり、映画「日本と原発」は
是非見て欲しいと断言いたします!
なぜなら、この映画には、
3.11を経験した国民が知っておくべき原子力のすべてが凝縮されていると思うからです。
3.11および原子力災害を経験し、
まさに原子力避難民となった避難者が、おすすめします。
原発推進・反対、再稼働賛成・反対、「原子力発電所止めたら経済が・・・」
「原発って難しそう・・・」「電気料金値上がるのは嫌だわ」・・・
などなど、あらゆる立場の方々に、
この映画を観てから、是非、再度、
ご自分の方向性を決めて頂きたいです。
真実が見えると思います。
現実を見つめることが出来ると思います。
原発の是非を語るならば、この映画を観てからにしてほしいと思います。
原発避難民の多くが痛感しています。
私たちはあまりに無知だった・・・と。
でも、この映画で「知」ることが出来ます。
原発避難民の多くは、
3.11前は原発避難を体験していない大多数の国民の皆さんと同じ認識でした。
そして悲劇が起こったのです。
いえ、正確には現在進行中で苦難の道を歩むことになりました。
私は思うのです、
3.10の私は皆さんと同じです。
だから責めたり非難しているのではなく、
ただただ、「知」って欲しいのです。
もう二度と、同じ過ちを繰り返さないために。
同じ悲劇を起こさせないために。
社会が子どもたちに恥ずかしくない選択をしていき、
次の世代に明るい未来を手渡すために。
映画のタイトル・バック
「私たちは原発で幸せですか?」
是非、多くの国民のみなさんに
ご一緒に考えて頂きたいと思います。
(2015/5/31)

東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream (略称:サンドリ)は
映画「日本と原発」を勝手にすすめています。
映画を観られた避難者の皆さん、
是非ご感想をお寄せ下さい。
sandori2014@gmail.com
※タイトルに【避難者の感想】とし、
映画「日本と原発」をご覧になったご感想、
避難を余儀なくされた皆さんの思いをなど、
一言でも何文字でも文字数制限はありません。
【映画「日本と原発」をすすめ隊】係までお寄せ下さい。
頂いた感想は、ブログにアップしたり、展示会、チラシなどに掲載し、
広く世間に原子力災害の避難者の「声」を届けさせていただきます。
思いのある方、どうぞご協力、よろしくお願い致します。
「私たちと原発~風化させない決意を込めて」
@京都教育文化センターでのシンポジウムで
映画「日本と原発」を観ての感想です。
↓
やっぱり、映画「日本と原発」は
是非見て欲しいと断言いたします!
なぜなら、この映画には、
3.11を経験した国民が知っておくべき原子力のすべてが凝縮されていると思うからです。
3.11および原子力災害を経験し、
まさに原子力避難民となった避難者が、おすすめします。
原発推進・反対、再稼働賛成・反対、「原子力発電所止めたら経済が・・・」
「原発って難しそう・・・」「電気料金値上がるのは嫌だわ」・・・
などなど、あらゆる立場の方々に、
この映画を観てから、是非、再度、
ご自分の方向性を決めて頂きたいです。
真実が見えると思います。
現実を見つめることが出来ると思います。
原発の是非を語るならば、この映画を観てからにしてほしいと思います。
原発避難民の多くが痛感しています。
私たちはあまりに無知だった・・・と。
でも、この映画で「知」ることが出来ます。
原発避難民の多くは、
3.11前は原発避難を体験していない大多数の国民の皆さんと同じ認識でした。
そして悲劇が起こったのです。
いえ、正確には現在進行中で苦難の道を歩むことになりました。
私は思うのです、
3.10の私は皆さんと同じです。
だから責めたり非難しているのではなく、
ただただ、「知」って欲しいのです。
もう二度と、同じ過ちを繰り返さないために。
同じ悲劇を起こさせないために。
社会が子どもたちに恥ずかしくない選択をしていき、
次の世代に明るい未来を手渡すために。
映画のタイトル・バック
「私たちは原発で幸せですか?」
是非、多くの国民のみなさんに
ご一緒に考えて頂きたいと思います。
(2015/5/31)

東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream (略称:サンドリ)は
映画「日本と原発」を勝手にすすめています。
映画を観られた避難者の皆さん、
是非ご感想をお寄せ下さい。
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※タイトルに【避難者の感想】とし、
映画「日本と原発」をご覧になったご感想、
避難を余儀なくされた皆さんの思いをなど、
一言でも何文字でも文字数制限はありません。
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頂いた感想は、ブログにアップしたり、展示会、チラシなどに掲載し、
広く世間に原子力災害の避難者の「声」を届けさせていただきます。
思いのある方、どうぞご協力、よろしくお願い致します。