東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream (サンドリと呼ばれてます)

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「ふつうの暮らし 避難の権利 つかもう安心の未来」裁判@大阪地裁 第1回口頭弁論期日における原告の意見陳述

平成25年(ワ)第9521号
大阪地方裁判所第22民事部合議3係  御中

意見陳述書

平成26年9月18日


                       原告番号1番
                         森 松 明希子

1.「20年後のあなたへ」

 ここに一通の手紙があります。
 2013年3月11日、
東日本大震災から2年が経過した日、
私は、子どもたちに手紙を書きました。
 「20年後のあなたへ」です。
 私の子どもたちが大人になった時に読むことを想定して書きました。
 避難当時は、ゼロ歳だった娘と3歳だった息子に宛てた手紙です。

愛する子どもたちへ
(抜粋して朗読)
 生きていてくれてありがとう。
 私の愛するあなたたちが健康で健やかに成長し、
今、20代の輝く未来に夢をふくらませている青年になっているとしたら、
私は母として、本当に嬉しく思い、
ただひたすら安堵の胸をなでおろさずにはいられません。

どうか、「生きている」ことの意味を深く考え、
「生かされている」ことに気づき感謝をしてください。

 わたしはあの日、2011年の3月11日をさかいに、
「生きる」ということの本当の意味を深く考えるようになりました。
あの日を経験して、ただ生きている、それだけで充分だし、
ただそれだけで感謝すべきことだと改めて気付かされたのです。

 それまでは、あなたたちふたりが健康で生まれてくれたことを喜びはしたものの、
そのことに感謝することを忘れ、
もっとこうなってほしいだとかああなってほしいだとか、
ただ単純に元気で生きていてくれることがどれだけ素晴らしいことなのかを
すっかり見失っていたような気がします。
 
 わたしたち家族は、同じ屋根の下に住む途を選ばずに、
家族が別々に暮らすという選択をしました。
 当時3歳で、物心がついているあなたには
相当の精神的ストレスを与えたことでしょう。
生まれて半年も経っていないあなたには、
もしかしたら家族のかたちが何なのか、
生まれながらにしてわからないままに育っていたのかもしれません。
 
 家族が不仲でもないのに二軒の家にバラバラに住むというのは変かもしれません。
 でも、一般論を振りかざして家族一緒に住むべきだといういう人がいたとしても、
あの震災があった午後2時46分、
家族バラバラでそれぞれの生死がわからなくて
再会できるまではお互いの死をも覚悟した経験はないのです。
その後、食料や飲水をどうやって一家四人分確保し、
分けあって生き延びるかという極めてサバイバルな体験をしたわけではないのです。
放射性物質が出た水を飲む決断をする状況、
それが体に悪いと分かっていても飲むしかなかった経験はないのです。
 
 私たち夫婦も多分、あの避難所での一ヶ月を家族四人で共に体験し、
乗り越えていなければ、これほど長期にわたる母子避難生活を
続けることはできなかったかもしれません。
 地震直後にすぐに母子だけで福島から逃げおおせていたなら、
あなたたちの父親の仕事への情熱、使命感を理解することなく、
一般論や常識に従って、家族は一緒に住むべきだと主張し、
そのとおりにしたかもしれません。

 どうか「普通」ということばを簡単に使わないで下さい。
 何が普通なのか、普通はこうだ、とか、普通ならこうする、とか、
そういった「普通」には絶対に惑わされないで下さい。
 思慮深く自分の頭で考え、その時の状況を冷静に把握した上で、
自分の本当に信じるものに従って、
それが「正しい」と判断したのなら、
決めたら迷わず、信念を持って進んで下さい。
 前進する中で、もちろん困難な状況に陥ることもあります。
そんな時は、助けを求める勇気を持って下さい。
助けてくれる人は必ずいます。

 あなたたちと私は、そんな人々に支えられて「今」があるのです。
 だから、必要なときには必要な助けを求めて下さい。
助けを求めることは恥ずかしいことではないと思うのです。
必要なことを思いつく限りの言葉を駆使して伝える努力をするのです。
そうすれば必ず途は開けます。

 そして最後に、「感謝すること」を忘れない人生をこの先もずっと歩んでいって下さい。
それが、あの日、あの時をともに乗り越えた母が、
愛する私の子どもたちに今一番伝えたい、たった一つのことなのです。

2.この裁判の原告になると決意したこと

 今、なお続く避難生活は、経済的にも精神的にも本当に大変です。
でも、何が一番辛いか。
「避難する」という行為が、あたりまえのこととして認められていないことです。

 そもそも、自分自身が裁判に出るなんて思ってもいませんでした。
「誰か」がやってくれると思っていました。
私は幼児を抱えて這々の体で避難してきたのだもの、
誰か余裕のある人が声を上げてくれるはず、
国の「知らせない、調べない、助けない」という過ちを訴えてくれるはずと
思っていました。

 しかし、違うのです。みんな大変な思いをして避難してきた人ばかりなのです。
「誰か」は誰でもない避難してきた当事者自身なのです。
当事者の声は切実です。
想像や憶測ではない現実です。
当事者がまず声を上げないといけないと思うに至りました。
 だから私は原告になる決意をしました。

3.子どもたちの被害

 わが家は、福島県郡山市にとどまっている医師である夫、
大阪に避難している2人の子どもたち、そして私の4人が原告になりました。

なぜ、子どもたちまで裁判させるのか。
それは、この事故の一番の被害者は、誰でもない子どもたちだからです。
私たち大人が容認した原子力発電所の事故により、
健康面でも経済面でも、精神的にも物理的にも、
あらゆるしわ寄せが子どもたちにきています。
 私は、抑圧された避難所生活に耐えかねて子どもたちを屋外に出してしまいました。
事故直後の最も放射線量が高かった頃、子どもたちを雨風に当ててしまいました。
いやがる子どもたちにマスクを強要することはできませんでした。
放射能汚染状況を知らされないまま不用意に子どもたちを被曝させてしまったのです
 知らなかった、いえ、知らされなかったとはいえ、
私は一生の不覚だと思っています。

 悔やんでも悔やみきれるものではありません。
 もしかしたら、子どもたちに健康被害がでるかもしれない、
いえ、もう出ているかもしれないという不安と恐怖です。
私が生きている限り、将来にわたって向き合っていかなければならない不安と恐怖があります。

 事故から2ヶ月経ってようやく関西に母子避難できました。
低線量被曝から子どもたちを守るためです。
しかし、医師である夫は、患者を放置することはできず福島に留まりました。

子どもたちは父母の意思に反して父親から分離されています。
束の間の父と子の面会も、会った瞬間から別れの時までのカウントダウンが始まります。
避難してきた時、息子は3歳でした。
大好きな父親と引き離されてどれほど精神的ダメージを受けるのか気を揉んだのですが、
別れ際は「バイバイ、また来てね」と意外と明るく乗り越えていました。
しかし、震災から2年を向かえる3月10日の日曜日、家族全員で過ごした夜、
いつもの別れの時間がやってきました。
5歳になっていた息子は、その夜初めて、父親との別れ際に号泣しました。

 母子避難は、子どもの命を守るための苦渋の選択です。
「避難をしたからもう終わり」ではなく、
毎日が「避難を続ける」という決断の連続なのです。

 2013年7月、避難してきて丸2年が経ちました。
私の子どもたちにも、ようやく福島県民健康調査として甲状腺のエコー検査を受ける順番が回ってきました。
私たちは、最も線量が高かった時期に何も知らずに福島にとどまっていました。
大丈夫かどうか、異常が出やしないか、検査を受けること自体相当の覚悟が入ります。
一刻も早く結果は知りたい、いや知って受け止めることは恐ろしい・・・
そんな気持ちです。
約1ヶ月後に検査結果が届きました。
私は怖くて、一人では検査通知を開封することはできませんでした。
夫の来阪日まで、ずっと開けられずにいたのです。
結果は、息子はA1、娘はA2の判定でした。

 A2というのは、5ミリ以下の結節が1個見つかったということでした。
説明には「結節は現在の状態から判断して。すぐに変化するものではないと考えます。
時間の経過とともに、少しずつ大きさや数が変わることがありますので、
次回の検査も必ず受診してください」とだけありました。
次の検査は2年後といいます。
 私は、2年待たずに、2014年3月に、大阪の医療機関で、甲状腺のエコー検査を受けさせました。
結果、8ヶ月前にA1だった息子にも5ミリ以下の結節が発見され、A2ということになりました。
 A2くらいは普通だよと言われても、A1でなければ不安は頭をよぎるし、今A2でも半年後は分からない、
その不安と一生闘い続けていかなければなりません。

 憲法の前文には「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」と書かれています。
私は、3.11以降、放射線被曝の恐怖から免かれ、平和のうちに生存していると思えたことは一度もありません。
 あの日福島の空気を吸い、福島の水を飲んだ私が背負う十字架はあまりに重いのです。


4.この裁判で訴えたいこと

 大阪市内の中学校で全校生徒に、避難体験をお話しする機会をいただきました。
私は、震災当日のことから、福島での生活の様子、放射能汚染による健康被害から身を守るための行動、
その最たるものが家族バラバラにはなるけど「母子避難」という選択であったことなどを、
できる限り具体的に、包み隠さずお話ししました。
全校生徒300人から感想文を送ってもらいました。
ほとんどの生徒が、私の話を自分に置き換えて聞いてくれていたことがよくわかりました。
 「もし自分だったら・・・・」
「自分には同じ年の弟がいるけど、今なおお父さんと離れて暮らすなんてあまりに辛すぎる」
「自分にも小学生の頃、父親の仕事の都合で離れて暮らした時期があるけれども・・・」
「中学生の自分でもだんだん暑くなっていく時期に長袖長ズボンは耐えられない、ましてやマスクだなんて」
「放射能から身を守るために、自分が親だったら同じことができるだろうか・・・・」。

私の子どもは幼すぎて自分の気持ちや我慢を言葉では上手く表現できませんが、
中学生の皆さんが、わが子の立場に立ってその気持ちを伝えてくれました。
また、今なお被曝にさらされている福島にとどまる子を案じ、
私のこどもたちの健康を心の底から心配する言葉が、そこには綴られていました。
あたりまえの暮らしがどれほど大切かを感じ取ってくれていたのです。

 そのときに思いました。
低線量被曝から健康を守るために避難するという選択は、
中学生でも子どもでも分かる単純なことなのかもしれない、
中学生でも分かる話なんだもの、裁判官が分からないはずはない、と。

 私の子どもだけでなく、この子たちの未来も奪ってはいけません。
そのためにもきちんと声を上げて、
ひとたび原子力発電所が事故を起こしたら、
人々の日常が奪われること、深刻な健康被害のおそれと一生涯向き合っていかなければならないという事実を、
世の中にきちんと伝える使命があると思っています。
 
 裁判では、「知らせない、調べない、そして助けない」ということが
どれほど人権を蹂躙していることなのかをきちんと判断してもらいたいと思います。
 その思いを胸に、私はこの裁判に臨みます。

 裁判長、
人の命や健康よりも大切にされなければならないものは
あるのでしょうか?

私は、放射線被曝から免れ、
命を守る行為が原則であると考えます。


以上


最後の二文は、
提出した意見陳述書には記載がありませんでしたが、
裁判官のお顔を見て、
どうしても言わなければ、伝えなければ、という思いから、
付け加えて陳述しました。

※この意見陳述を是非日本国中にシェアして下さい。

※日本だけでなく、全世界に届きますように・・・
(意見陳述書の転記・転載は大歓迎です!)

ピンクチラシ 切り抜き


【サンドリ・裁判所に「声」を届け隊】よりお願い

裁判所で実際に弁論、意見陳述等で発言された方は、
是非、原稿、発言内容をお知らせ下さい。

是非とも避難者の「声」を裁判所だけでなく、
広く、一般の方々にも「伝えて」欲しいと思います。

東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream 
        【裁判所に「声」を届け隊】一同

連絡先  sandori2014@gmail.com


| 【裁判所に「声」を届け隊】 | 23:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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