東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream (サンドリと呼ばれてます)

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【東日本大震災5周年 避難者の声 NO.8 】    Mさん  (福島県郡山市→大阪府)

【東日本大震災5周年 避難者の声 NO.8 】
      Mさん  (福島県郡山市→大阪府)


 2015年12月25日の夜、避難元まで乗せて行ってくださる「里帰りボランティアバス」に乗って、
福島県郡山市の自宅に一時帰宅してきました。

3.11当時は0歳と3歳だった子どもたちも、今は、5歳と8歳。
クリスマスには間に合わなかったけれど、
ほんの少しでも離れている父親と子どもたちが楽しい一家団欒の時を過ごすためです。

5年近く母子避難を続ける私たちにとっては、
5度目の冬を迎えましたが、毎年思います。

あの日以来、私たちにはクリスマスもお正月も心からお祝いしたことなんかないなぁと・・・

ふつうの家族が一家団欒を楽しむというふつうの日常をどれほど犠牲にしているのかと思うと心が痛いです。
子どもたちは久々の帰省とあってはしゃいでいましたが、私の頭の中は、この多くの人々が住んでいるこの避難元に、
やはり戻ってきて家族4人で暮らしていけるのか?という視点でつぶさに街の様子を観察します。

気の重たい作業です。
なぜなら、郡山駅に降ろされた瞬間、街はふつうに車も走り、人は行き交い、通る人々はまるで何もなかったかのようです。
ですが、駅前に表示されるモニタリングポストは現実を物語っていました。
綺麗に掃除されて周囲がコンクリートで「土」の地面近くでもないのにこの数値。

 
グラフィックス1
駅前モニタリングポスト
 (原発事故前、福島県の空間線量は毎時0.04~0.05マイクロシーベルト。2015年12月26日撮影)

グラフィックス2
郡山市民文化センター
(小数で小さい値のように見えますが、ケタが違います。
一桁違うのです。1ケタ違うということは、10倍線量が高いということです。
2015年12月26日撮影。)


グラフィックス3
屋内遊戯場・ペップキッズ郡山
(それでも十分高い値です。ちなみにこれら行政が設置したモニタリングポストは周りをしっかりと除染し、
コンクリートで固めていて周辺よりも低めに表示されますが、それでもこの数値です。2015年12月28日撮影)

 
この数値の意味を知る人で、ここに帰るべきだという人はおそらく一人もいないと思います。

そういうことを平然と言える人は、
自分がそこに住まなくてよいとか無関係だと思っていることの証にほかなりません。
いかに親身ではないか、他人事だと思っているか、ということです。

そして、私は5年経った今、思うのです。
いったい、どれほどの人が、この数値の本当の「意味」を理解しているのでしょう。

現職の環境大臣(ちなみにこの方は小さいお子さんもお持ちのお母さん議員さんでいらっしゃったと思いますが)のご発言が
一事が万事ということであって、ほとんど、この数値の意味も分からず、皆さん好きなことを好きなようにおっしゃる。

5年もの歳月があったのです。
私は、これらの数値の意味がもっと教育の現場、そして広く一般でも語られ、理解され、
そして対策が立てられ、子どもたちが救われる手だてが講じられる5年を想像していました。
しかし、そうではない現実に、今、打ちのめされています。
 
目には見えない、色もない、五感で感じることができない低線量の被ばくに対して、
精神的に「慣れ」たとしても、
肉体的に人間の体が放射線に「慣れる」ということはない
のです。
着実に被ばく量を重ねるという現実。
その影響を引き受けるのは一体誰なのでしょうか。

私は親ですから、子どもを生み、育てる以上、健康被害のリスクはより下げたいと思うのです。

このことは、何ら恥じること無く、むしろ、親として、人間として、当然のことであり、
子どもが生涯にわたり健康であってほしいというのはいつの時代も変わりなく、親としての、子を産んだ母親としての
ごくごく単純でささやかな普遍的な願いではないのでしょうか。

もうひとつ、郡山の自宅への一時帰宅で衝撃的な光景を目にしてしまいました。
 

グラフィックス4
一列に並ぶフレコンバッグ(放射能の袋詰め)
 2015年12月28日

福島の自宅マンションの裏には、JRの鉄道の整備工場の広い敷地があります。
もちろんコンクリートの打ちっぱなしではなく、広大なその敷地はほとんどが土で強い風が吹けば砂埃が舞い上がります。
敷地はフェンスで囲まれているのですが、そのフェンスの足元には雑草が生い茂り、
事故の直後から、いかにも放射線が溜まりやすく線量も高そうだなと思っていました。

また、その敷地は全体的に盛り土がされているのか、ちょうど大人の顔の高さくらいに敷地全体が1メートルほどかさ上げされていて、敷地の横を通るとき、土壌や雑草を顔のそばに見ながら通行しなければならず、非常に危惧しながら震災直後は通りたくない道でした。
でも、駅やスーパーマーケットにつづく一本道で、嫌でも通らなければならない生活道でした。
 
それが、今回の帰省で、とうとうその敷地にも「除染」の手が入ったのか、敷地が隅々まで綺麗に掃除され、
フェンスの足元の草ぼうぼうだった雑草などが全て綺麗に刈り取られていました。
 
ここまでなら、5年経ってやっと・・・とはいえ、喜ぶべき事なのでしょうけれど、
そうは問屋が卸さないとはこのことです。

ふと敷地に目をやると、そこには整然と並ぶ大量のフレコンバッグの列
 
しかも、たちの悪いことに、通行人の目線では1列(およそ40個)なのかと思いきや、
郡山の自宅はマンションなので上階から確認すると
、なんと、40個×10列=ざっと数えても400個はあります。


151228_092754 フレコンバッグ@福島県郡山駅前.jpg
市街地にもおびただしい数のフレコンバッグ(放射能の袋詰め) 
2015年12月28日撮影

フレコンバッグとは、
除染のために刈り取った草木や放射線で汚染された土、枯れ木、その他放射能汚染された核のゴミを集め、
ちょっとだけ分厚い感じのビニールみたいな素材で作られた袋に詰められたものです。
ようするに、簡単に言うと汚染された放射性物質の袋詰め、核のゴミの塊というわけです。
 
想像してみてください。
ふつうの生ゴミとかではないのです。
「核」のゴミなのです。

そして、想像してみてください。
皆さんのお住まいの地域のゴミ収集事情は多少は異なるかもしれませんが、
大体においてこの国では、1週間に2回位の頻度で、ゴミ収集車がやって来て、
生ゴミであれば焼却場へ運んでくれませんか?

私が避難している先の大阪では、週に2回、火曜と金曜の朝には
ゴミ収集車が生ゴミを運び去ってくれますし、
木曜日にはプラスチックのゴミが運び去られます

でも、この放射能の袋詰めは、半永久的にココから運び去られることはないのです。
数日滞在しましたが、微動だにせず、
そこに、風景に馴染むこともなく、ただそこに存在し続けました。
もちろん核のゴミ収集車がやって来て綺麗に運び去ってくれるということはありません。
半永久的にないでしょう。

よく、テレビのニュースでは、強制避難区域となった地域の広大な田畑、山林近くに、
大量のフレコンバッグの山積みの映像が流れます。

このことも、異常事態、非日常、ありえない原子力の惨禍の一端を可視化できるものとして好んで大手メディアや新聞報道で大々的に報道もされます。
よく県外からの来訪者もココぞとばかりにフレコンバッグの山積みの映像と、同時に、
そのそばにマスク姿で立ち、線量計をかざし、高濃度の汚染の証拠写真が数々残されています。
(ちょっと丈夫なただのビニール袋詰めですから当然周囲の環境以上の高線量をこのフレコンバッグは放っています)

でも、私は、本当に国民が知るべきは、この現実なのだろうと思うのです。

そして、原子力の惨禍に本気で人々が向き合おうとするなら、
人類が共通の認識と理解として知るべきことは、
この、ふつうに人々が暮らす空間に、おびただしい数の放射能の袋詰めがこのように堂々と鎮座し、
どこに運び去られ、処分されるあてもなく、現実は、高濃度の放射線を放ちつづけ、
その汚染物のすぐ脇を通って通学する子どもたち、通勤、生活する人々が存在している、
ということだろうと思うのです。

何事もなかったように。
まるで、そこにある放射能の袋詰めが見えないものであるかのように
見えているのに見えないものとして扱うことではないと思うのです。

放射線は目には見えないし、色もニオイも肌で感じることもない、
でもあきらかにそこにはフレコンバッグがズラリと存在し、
何百個というおびただしい数の放射能の袋詰めの目の前で生活を余儀なくされる人々が
現実に存在しているのです。

通常一般人の感覚として、とうてい受け入れられるものではありません。

避難元を出る選択肢が用意されず、もしくはそこから立ち去るという手段がない人間にとっては、
これは「慣れ」なのでしょうか?
それとも受け入れるしかない、という「諦め」に似た感情なのでしょうか。

そこから運良く退避出来た私には想像もつかない人間の心理や葛藤があることは想像に難くないのですが、
それは私の想像の域をでしかありません。

ただ、私が言えることは、たとで大多数の人が「慣れ」なのか「諦め」なのかはわかりませんが、
そうであったとしても、
私は、放射能の袋詰めと共存することに、慣れたくはないし、諦めることもしたくないと思うのです。

ふつう、自分の家の前にゴミを置かれたら、人はそのゴミは除けてくださいと請求することが出来るはずです。

それが毒を放つもので、人体に悪影響しか及ばさないものであればなおさら、
それを取り除いてくれと要求することは、至極当然であり、真っ当であり、正当な権利の主張であると思うのです。

通常の生ゴミであれば、例えば異臭を放つ、害虫が発生して極めて環境が不衛生になる、など
受忍限度を超えて害悪を与えられれば、強制執行などの手続きをふんで
、ゴミが取り除かれるまでは罰金が加算されていくとか、
行政代執行など、直接的に取り除く手段が講じられると思います。

でも、それが出来ないのが放射能の袋詰なわけなのです。
持っていき場もない。自分で素手で取り除くこともできない。
そして、核のゴミを受け入れる自治体などないということは、
報道でも皆さんがご承知のとおりです。

放射能の袋詰めとの共存など、およそ通常一般的な感覚を持ち合わせている母親が、
普通の精神状態で冷静に考えて、
受け入れられると、本気で世の中の人々は思っておられるのでしょうか?

もしも自分だったら、
自分がわが子とともにこの現実を突き付けられたなら、
あなたは黙ってこの放射能の袋詰めを目の前に「暮らし」を営もうと思えますか?

「復興」「がんばろう」「絆」・・・
きれいな言葉で美談に仕立て上げるのはやめにして下さい。
これが、福島の現実です。

目の前に、放射能の袋詰め。
持っていき場のない核のゴミ。
その前を子どもたちが通り、人びとが行き交う。
特にマスクもしないし、夏には半袖で出歩きます。

まるでそこにあるフレコンバッグそのものさえも、見えない放射能と同じに
まるで見えないもののように扱うのは
どうかやめにして下さい。

『裸の王様』というお話があります。
王様は裸なのに、誰一人、そのことを指摘しない。
でも、純粋に、まっすぐに、事実を、見たままを口に出せる「子ども」は、
「王様は裸だよ!おかしいよね。」って言えます。ちゃんと、声に出して、事実を言うのです。

「放射能の袋詰めがおいてあるよ。持って行く場所もなく、目の前にある。こんなことって、おかしいよね。」

アンデルセンの童話は、誰の心の中にもある虚栄心を痛烈に風刺していますが、
もしかしたら、5年経って、
先進国(であるはず)の、経済大国(であるはず)の美しい国(であるはず)の、この日本という国で、
まさか原子力に対して手も足も出せない、コントロールなんてできないということに、
人びとは耐えられないから、
見えているフレコンバッグでさえも見えないもののように扱えてしまうのでしょうか?

漏れ出した放射能の処理一つ満足にできない、そんな恥ずかしいことがあってはならない、
賢くて勤勉で有能で優秀な世界に誇れる日本ブランド、世界から称賛を浴びる日本人、
そんな国民一人一人の傲慢やおごりが、
目には見えない放射線を皮肉にも見える化しているフレコンバッグを目の前にしてもなお、見えなくさせてしまっているのではないかしらと
私はそう思わずにはいられませんでした。

でも、そんな大人の虚栄心のために誰がリスクを背負うのでしょうか。
また、健康被害のリスクを高め生涯にわたり被ばくと向き合わされるのは、
一体誰なのでしょうか。


震災から5度目の冬、
私は「慣れ」という恐ろしい現実を体感し、
「あきらめ」に似た感情の大きな波にのまれそうになりながらも、
やはり避難元には戻れないという事実と向き合い、
失意の中、
帰阪し、避難先の大阪で新年を迎えることとなったのです。

放射線に「慣れ」ることはないと確信した私は、同時にあきらめることもないということもまた、確信しています。
それは、避難をし、身を寄せる先があるから言えることなのかもしれません。

だからこそ、その環境に感謝をすると同時に、自分のできることをしようと思います。

与えられたたった一つの命は大切にされなければなりません。
命を守り、健康と子どもたちの未来のために、私は「避難」を選び続けることをこの日もまた「決断」したのでした。

5年経っても、毎日が「避難を続ける」という苦渋の決断の連続なのです。

                (福島県郡山市→大阪市・2児を連れて母子避難 2016.3.11)

| 【東日本大震災5周年企画】 | 16:10 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【東日本大震災5周年 避難者の声 】ココナッツさん   (福島県福島市→長崎県長崎市 )

【東日本大震災5周年 避難者の声 NO.7 】ココナッツさん
              (福島県福島市→長崎県長崎市 )

短歌

どれほどの犠牲を出しても学ばない原子力国家その名も日本

福島の声なき声を聞いてくれ誰が汚した地も山も海も

それぞれが自分の道を歩き出す心に刻んだ2011

一年も家族に会えないこの様は原発ありきの国のせいぞ

夢なのか幻なのか法令を背いた政府を誰が信じる

忘れない あなたのすべて 奪った日 笑顔の影で流す涙を

福島のために野菜をつくる夫くっきり焼けた肌の芳し

安全と危険が常に平行線 原発事故が産んだ分断

原発から我が子を守る一心で故郷離れる決心をする

成長に合わせた浴衣何枚も祖母は送りし会えない曾孫へ

抱きたる母のぬくもり限りなくまたすぐ会いたし涙あふるる

ふるさとを離れる決意成せたのは我が子を守るただにそれだけ

原発のエゴや利権を振りかざす大人よ子どもの未来守れよ

全国にそびえる原発なくさずに死ねるか我ら責任果たさん

原発を造った大人はどこにいるまだ反省も戒めもない

故郷から離れて暮らす我が家族遠く見守りいる人を想う

遠い地で新たな生命をもろうたと故郷に知らせ秋風の吹く

懐かしのあの日歩いた風景が夢で現れふるさと恋し

災害や未知の遭遇から守らん命どぅ宝ただただ生きて

一日の朝を迎えるありがたさ何をしようかどう生きようか

| 【東日本大震災5周年企画】 | 15:56 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【東日本大震災5周年 避難者の声 NO.6 】一児の母さん     (福島県→大阪府)

【東日本大震災5周年 避難者の声 NO.6】一児の母さん
                     (福島県→大阪府)

私の子どもは様々なアレルギーがあります。

普通一般的に、蕎麦アレルギーの人は蕎麦を避け、卵アレルギーの人は卵を避けます。
なぜなら、摂取するとショック症状を起こしてしまうからです。
アレルギーの中でも、少しなら食べられるという人もいれば、微量でも死に至る人もいて程度は人それぞれです。

私の子どもは食物の他に、花粉、金属、化学物質アレルギーがあります。

今回皆さんにお伝えしたいのは、あまり知られていない放射性物質によるアレルギー症状です。
蕎麦や卵、小麦などなら誰でも知っているアレルギーですが、放射性物質に関してはなかなか世の中の人たちに知ってもらうことができません。

血液検査などで『蕎麦』『卵』『スギ・ヒノキ』…などの項目はありますが、『放射性セシウム』などの項目はありません。
放射性物質の項目があったらすぐに分かってもらえるのに…といつも思います。

我が子は、放射性物質に触れると様々な症状が出ます。
年に一度、福島に帰省する時はいつも決まって鼻血、口内炎、下痢、そして咳が止まらなくなります。リンパも腫れます。肌が露出している部分は赤い湿疹となり、次第に化膿しグジュグジュになってしまいます。
放射性物質によるアレルギー反応を起こすのです。

花粉症はよくコップの水に例えられます。個人の持つ体内のコップの大きさは大小様々ですが、それがいつの日か満タンになって溢れた時に花粉症となって症状があらわれると聞きます。

原発事故当初、今とは比にならないほどの大量の放射性物質が漏れ出し、放出されました。私たちは知らずにそれを吸い込み、浴びてしまいました。
私たちの放射性物質の体内のコップは、もうすでにいっぱいになり溢れています。

原発事故から5年になりますが、いまだ多数の避難者が存在しています。おそらくその人たちも何かしらの症状があり避難し、いまだ帰れずにいるのだと思います。

今、国は、熱心に福島に帰るよう帰還を促しています。
以前より線量が下がったとか、除染が進んだなどと説明していますが、そんなことでは済まない話です。

問題なのは『そこに放射性物質があるかどうか』なのです。本来、決して外に出てはいけないはずのものが、ほんの少しでも外に出てしまったことが大問題であり、今後それらは半永久的に消えることはありません。
量が減ったから大丈夫などと話をすり替えてはいけません。
たとえ微量であってもアレルギー症状は起こります。
微量どころか、今現在も生活空間に大量の放射性物質が存在しています。
除染したところでその汚染物質の行き場も無いのが現状です。

アレルギー症状が出た時、また、ショック症状が出たら一体どうするのでしょう?
全ては自己責任になってしまいます。

そのような状況で帰還しろということは、蕎麦アレルギーの人に蕎麦を食べろ!、卵アレルギーの人に卵を食べろ!と言っているのと同じことです。
もし私が子どもにそんなことをしたら、それは虐待にあたるのではないか?とさえ思います。

放射性物質アレルギーの人に対して福島に帰還しろ!などという殺人的な呼び掛けは、もういい加減やめにしませんか?『アナフィラキシー』キャンペーンを推し進めることは罪を犯すこととなんらかわりありません。

                    (2016年2月18日執筆)

| 【東日本大震災5周年企画】 | 15:52 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【東日本大震災5周年 避難者の声 NO.5 】   福島県いわき市→埼玉県、小学2年生女児

【東日本大震災5周年 避難者の声 】
      福島県いわき市→埼玉県、小学2年生女児

(お母様より)
遠くても、なんかつながってる感覚嬉しいですよね。時折孤独に苛まれるけど、こうやって繋がれる相手がいて安心します。サンドリさん、ありがとう。
娘の作文送ります。
これは、私が裁判の意見陳述を書いてる時に娘も書くと言い出し書き始めたものです。小学2年の娘、辛い思いさせてるなって思ってたけど、実際文章にされると言葉を失いました。ただただごめんねというしかなかった、、、。法廷でもよみあげさせてもらいました。
 
〖娘・小学校2年生の声〗

わたしは、毛呂山にひっこしてきてほいくえんのともだちと別れちゃうことになりました。
わたしは、とてもなかのいいともだちがいました。
なのにひなんすることになってなかのいいともだちとわかれることになりました、そしてとてもつらいおもいをしました。
ママはあたまがおかしくなってにぃにはパパとわかれてないてしまい、わたしはともだちがいなくなりなきました。
わたしは、これからなにをするのかがわかりませんでした。
わたしはこわくなりました。
わたしはこれからどうなるのかがふわんです。わたしはさいきんじしんときくとからだがふるえてないてしまいます。なのでママがなきやませてくれます。わたしはこわくてたまりませんでした。わたしはじこがおきなければ友だちとはなれずママは、あたまがおかしくならずにすんだのにじこがおきてめぐは、ともだちとわかれることになりママはあたまがおかしくなってしまいました。わたしは、かなしくなりました。だってかぞくがおかしくなってしまったからです。

以上です。重複する部分とかありますが、原文のまま読みました。繰り返される言葉が、それだけの痛みを与えたと思ったからです。
この作文を書いている時、まさに住宅支援が打ち切り発表があった時で、家を追い出される不安も強くあったと思います。
私達、この先どうなるんでしょうね、、、、。(お母様より)
                      (2016年1月31日執筆) 

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【東日本大震災5周年 避難者の声(京都訴訟意見陳述) NO.4 】  Kさん(茨城→京都)   

【東日本大震災5周年 避難者の声(京都訴訟意見陳述) NO.4】
           Kさん (茨城→京都)

 茨城県北茨城市から京都市に 2012年1月より避難しております。
 避難当初は子ども3人と暮らしておりましたが、長男は地元でなければ暮らせないと心の葛藤の末体調を崩し、避難して1年10ヶ月後に帰郷してしまいました。
 避難元である北茨城市は、今年8月25日、平成26年度の甲状腺超音波検査事業の結果を公表しました。その内容は、東日本大震災時、福島第一原発事故発災時に北茨城市に居住していた18歳以下を検査対象者6,151名とし、そのうち3,593名が超音波検査を受け、3名が甲状腺癌と診断されたというものでした。

 ここで、北茨城市の位置と事故当時の放射能汚染状況を少しばかり述べさせていただきたいと思います。

 北茨城市は、茨城県の太平洋沿岸、福島県いわき市との県境にあります。自宅は、福島第一原発から68キロにあります。京都市と大飯原発の距離くらいでしょうか。北茨城市の事故後放射線量の最大値は2011年3月16日午前11時40分、毎時15.8マイクロシーベルトでした。市庁舎前モニタリングの観測値です。これは、「年換算で138ミリシーベルトにも達する値」であり、また、「法律で定められた公衆被曝線量限度年間1ミリシーベルト」をはるかに超えていました。2011年12月には、環境省により汚染状況重点調査地域に指定されています。また、アメリカ国家核安全保障局による大気中のダスト分析データには、2011年3月23日午前2時43分、ヨウ素131は、160.04bq/立方メートル及び126.43bq/立方メートル、アルファ線総計1.45bq/立方メートル、β線総計1520.99bq/立方メートルとありました。これらのデータを検索していた時の私の思いは、「避難しなくてもいい、安心なデータがほしい!」というものでした。安心したくて、安全を確かめたくてデータを検索する日々でした。ところが、情報を知れば知るほど、「ここにいてはいけない、まず、避難だ。それからまた考えればいい」という思いへと変わっていきました。そして、夫の反対を押し切って子連れで避難となりました。この避難を実現できたのは、住宅支援があったからこそなのです。普通の引越しであれば、家族力を合わせて場所を決めたり、手続きをしたり、買い物をして準備ができます。しかし、周りの反対を押し切っての避難というものは、家族や友人の一人ひとりに苦しみ悲しみをもたらすものでもあり、子どもたちの被曝に細心の注意を払う生活の中、口にしにくい放射能のことを説明して回り、家では、ひとり荷造りをする日々が続き、そしてようやく避難当日を迎えるのです。心理的にも経済的にも切羽詰まった状況の中で、まだ仕事のない新しい土地に家族の反対を押し切って住宅を得るということは、支援がなければ、普通のサラリーマン家庭では非常に困難なことなのです。
 誰ひとり知り合いのいない京都に避難して3年8ヶ月、ようやく親子共々居場所ができ、地域の一員として前向きに生活することができるようになりました。子ども達は、もう転校したくないと言っており、私もまた、新しい土地でゼロから始めることは非常に厳しいと考えております。
 2012年6月21日に衆議院本会議で全会一致で可決した「原発事故子ども・被災者支援法」は、国が、被曝した被災者に責任を持つと表明したものなのです。そこには、「被災者一人一人が、居住・移動・帰還の選択を自らの意思でできるよう国が適切な支援を行う」ことが理念とされています。ところが、今年6月、自主避難者の住宅支援打ち切りという、選択の権利を奪い、避難者の命綱を切って帰還を促す施策が堂々とまかり通ってしまいました。新たな復興加速化指針には居住制限・解除準備地域について、2017年3月までに解除し、その1年後で賠償を打ち切ると書かれてあり、私達のような自主避難者の存在自体、あってはならないということなのでしょう。
 国連人権理事会のグローバー勧告では、「子ども被災者支援法の基本方針を事故の影響を受けた住民や自治体とともに策定すること」や「汚染レベルを年間1ミリシーベルト未満に下げるために期間がきちんと明記された計画を早急に策定するよう」求められているにもかかわらず、人権無視の施策が続いています。
 これまでも一方的な避難解除が行われてきました。
 はじめに原発再稼働、原発輸出ありきの経済最優先のこの国のあり方は、原発事故とそれに伴う放射能汚染がなかったものとし、事故の責任の所在を曖昧にし、今ある命、未来の命を脅かすものです。
 ここのところ、人権を踏みにじる憲法改正への動きもあり、るこの時期に提訴となったことで、人権を守る司法の力をよりいっそうかけがえのないものと感じております。
 どうぞ、真実が明らかにされ、人権が尊重される世の中となりますよう、お力添えをお願い致します。

大気汚染データ http://www.ne.jp/asahi/nonukes/home/docs/airdust_nnsa.html
北茨城市甲状腺検査http://www.city.kitaibaraki.lg.jp/docs/2015082500032/files/koujousenn.pdf
                                (2016年9月29日執筆)

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