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【書評】もし、科学が詩人の価値、つまり一つの花を守るために動員されれば、 つまり、そのために役立てば、それは科学は文学に奉仕することになる。 科学と文学は対立するのではなくて、それは協力関係になる。by黒川眞一さん/ 森松 明希子・著『災害からの命の守り方ー私が避難できたわけー』(文芸社)
【書評】「宮崎・早野論文」とはなにか、
そして何が問題であるのか、
市民にわかりやすく解き明かしてくださった
黒川眞一さん
(高エネルギー加速器研究機構 名誉教授)が、
素晴らしい書評を贈って下さいました。
心から感謝申し上げます。
黒川さんのご紹介くださる先達の珠玉の言葉は、
圧倒的に説得力があります。
そして時代を超えて勇気と希望と向かうべき方向を
指し照らしてくれるようです。
できるだけ多くの方々に広く共有していただきたいです。
(写真左)『災害からの命の守り方
ー私が避難できたわけ』(文芸社)
(写真右上)黒川眞一さん
(写真右下)「伊達市民の被曝線量を過小評価した
大規模住民データ解析論文
―科学の規範を成り立たせるための
宮崎・早野論文への総合的批判」
(岩波書店・科学 2021年8月号)

【書評】黒川 眞一さん(高エネルギー加速器研究機構 名誉教授)
1.この本は良く書かれた哲学書である。
この本は、2011年3月11日に起こった福島原子力惨禍により、
郡山から大阪に母子避難をした著者が、
日本国憲法前文に書かれている、
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(平和的生存権)、
そして憲法13条の「すべての国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と
憲法25条の「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
を根拠として、
「避難の権利を含む、被ばくからの自由」を憲法上の権利であると主張するにいたる過程を書いた本である。
私の一読後の感想は、よく書かれた哲学の本だというものである。
私が「哲学」の本であるとするのは、
加藤周一の「科学の方法と文学」という論考において指摘する、
「信条というものは、感情的出発点があって、
それがさらに思考過程と結びついて出来上がるものです。
その結びつきにおいて、主観的なものが客観化される。
内在的なものが外在化される。
伝達不可能なものが伝達される。
それは、結局、一言でいえば、
経験、あるいは価値の特殊性を普遍性へ向かって超えてゆこうとする精神の働き」が描かれているからである。
以下に加藤周一の論考のその前後を引用する。
(引用) だから、文学と信念と科学の関係は、
「私」から「われわれ」を通じて「みなさん」の方へ行く関係になる。
私からわれわれに移るところの問題、
この移行が信ずるという行為です。
ですから、信条というものは、感情的出発点があって、
それがさらに思考過程と結びついて出来上がるものです。
その結びつきにおいて、主観的なものが客観化される。
内在的なものが外在化される。
伝達不可能なものが伝達される。
それは、結局、一言でいえば、
経験、あるいは価値の特殊性を普遍性へ向かって超えてゆこうとする精神の働きです。
(中略)
もう一つの特徴は、
信じるというときには、
複雑なものの全体を問題にすることが多いということです。
(中略) しかるに複雑な対象の全体を問題にするときには、
科学的には、不可能です。
科学は必ずやその全体をまとめて一挙に取り扱う方法は、
科学のなかには内在していない。
しかし対象の全体に対して態度を決めなければならないということは、
人生のなかでわれわれが絶えず出会うことです。
戦争に対して、平和に対して、私の友達に対して、その人格の全体に対して、
その態度を決定しないかぎり行動することもできない。
その意味で、全体の認識はわれわれの人生にどうしても必要なわけで、
その必要なことは決して科学的にはできないから、
信じるということが、必然的になってくるでしょう。
もし世界を解釈することではなく、
世界を変えることが大事だとすれば、
世界を変えるためには、信じることが大事だ。
こういうことになります。(引用終わり)
2.基本的人権から考える
基本的人権とはどういうものかについて、
私は3人の偉大な先人の次のような言葉を常に思いだすようにしている。
まず、私が大学生のときに直接教えを受けることができた
鶴見俊輔先生の言葉である、
「人権というものは言葉としてわかっているだけではだめだ。
人権の侵害に即座に反応するバネを自分の中に作らなければならない」。
次に、羽仁五郎さんの
「基本的人権とは水をいれる甕(かめ)のようなものだ。
ほんの小さな傷がついても甕は水をためることができなくなる。
それゆえ、どんな小さな人権侵害も許してはいけないのだ」。
そして、最後に、ハーバート・ノーマンが
「日本の兵士と農民」のあとがきに書いた次の言葉である。
「さて、過去において、日本の為政者が人民の直接の政治関与を妨げ、
またそれを抑えてきたために、
日本人はものごとに消極的な態度をとる習慣を身につけています。
これはどういうことかと言えば、
不正が行われているときに、腕をこまねいて傍観していることを意味します。
人権を護るのに勇気がどうしても必要であるということを
17 世紀のイギリス初期民主主義者はつぎのように雄弁にいいあらわしています。
『なぜなら、一人の身にふりかかることは万人の身にふりかかるだろうからである。
すべては一つの同胞なのであるから、
一人だけ不当に苦しむのはよくない。
みなともに一人の擁護につとめるべきである。
さもなければ、恣意と権力に途を譲り、
その虐政と抑圧の狂瀾(きょうらん)は
法と自由の堰(せき)を越えて襲いかかるだろう。
他人のために努めないならば、
たとえ露ほども思わないでも、
自分の権利に背き、権威に屈し、
自由の人も奴隷とすることになり、
平地に波瀾を起こすのを惧れる(おそれる)あまり、
今の世はおろか後の世までも裏切りの汚名を残すことになるだろう。』」
私がこの3名の先人に習ったことを、
著者の森松さんは、自ら考え自分の言葉で著書の中で表現している。
例えば、
「『人権』を単語として知ってはいても、
基本的人権を全身全霊で感じ、
尊厳を持って自分が本来手にしている基本的人権を全力で死守することが、
一番「命が守られる」ことに結果的につながる、
今、私は確信を持ってそう結論づけているのです。」389ページ
これは私が鶴見俊輔先生から教えていただいたことそのものである。
「3・11をさかいに、私はマイノリティ(社会的少数者)となりました。
(中略) しかし、たとえマイノリティであったとしても、
人権が踏みにじられたり、ないがしろにされて良いわけはありません。
(中略) 3・11から学ぶべきことは、たとえ少数であったとしても
(書評者注:人権を侵害されている人々が少数であったとしても)、
基本的人権が尊重される社会を実現しなければならないということです。」121ページ
まず少数の人々の基本的人権が侵害される。
これが、羽仁五郎がいう「甕の傷であり」、
ノーマンが引用する「一人の身にふりかかることは万人の身にふりかかる」ということである。
「私たちの生きている日本という国では、
権利の主張を忌み嫌う傾向(国民性と言って良いのかもしれない)があるように感じます。」344ページ
これはノーマンの冒頭の指摘そのものである。
3.避難の権利を含む、被ばくからの自由
「避難の権利を含む、被ばくからの自由」について、
著者は、第8章<逃げることは権利だ>の
9節 <「被ばくからの自由」の具体的権利内容>において
緻密な議論を展開している(267ページから271ページ)。
著者はこの権利は、
(1)絶対的被ばく拒否権、
(2)選択的被ばく回避権、
(3)被ばく情報コントロール権
の3つからなるとする。
「被ばくそのものが絶対的な生命・健康に関する権利の侵害であることが、
紛れもない事実であることから、人は生まれながらにして基本的に、
被ばくを絶対的に拒否することができるという権利」
すなわち絶対的被ばく拒否権があることをまず指摘し、
その上に、
「被ばくさせられる状況があることを知ったときには、
自由にいつからでも被ばくを回避する権利」
すなわち選択的被ばく回避権があり、
この回避権を行使するまたは行使しない自由が各個人にあるゆえに、
「避難の権利」は、この「選択的被ばく回避権」の行使であることを導く。
さらに
以上の2つの権利を行使するためには、
「被ばく情報コントロール権」、
すなわち、被ばく量や被ばく期間についての情報を知る権利が不可欠であり、
国や東京電力は市民に正確な情報を知らせる義務がある。
それにもかかわらず、国や東京電力は市民に情報を伝えず、
「被ばく情報コントロール権」が侵害されていることを指摘している。
評者は、森松さんが書く次の文章を特に重要と思うゆえ、
長くなるが、以下に引用する。
「絶対的被ばく拒否権と、選択的被ばく回避権は、両立するものなのです。
すなわち、選択的に被ばくを回避することが、
いつからでも、自由に、誰にでもできるということなのです。
そうであるにもかかわらず、放射能をばらまいた加害の側が勝手に強制避難区域を線引きし、
区域内外を設定し被ばく回避の道筋を保障せず、
また、被ばく回避の開始時や終了時を決めることなど、
権利侵害の上乗せ以外の何物でもないと言えると思います。
人は無用な被ばくに対し、
それを避けたいと思えば、どのタイミングからでも被ばく回避権を行使し(始期の自由)、
被ばくのリスクがあるかぎり回避し続け(期間の自由)、
被ばくの状況がなくなるまで、
もしくは被ばくを避ける権利よりも大切な権利のために、
一旦被ばく回避権を終了させることができると考えます(終期の自由)。
被ばく回避権は、どの段階においても妨害されることはなく、
そのための費用や負担が生じたときには、
それを補償しなければ、それは不作為による権利侵害にあたるといえるのです。」
ここには強制避難区域の勝手な線引きを行い、
被ばく回避の開始や終了を決めているのが、
放射能をばらまいた側の国と東京電力であり、
彼らに区域内外のどちらからの避難であっても補償の義務があることを明確にしたうえで、
住民の側に被ばく回避権を行使する自由があることを示している。
4.日本政府はGPIDを無視している
著者は、第5章2節において、
「避難の権利を含む、被ばくからの自由」は1998年に国連で採択された、
Guiding Principles on Internally Displacement (GPID)
という原則に定められたものであることを紹介している。
外務省による日本語仮訳ではこの原則は、
「国内避難に関する指導原則」であり、
GPID日本語版作成委員会(代表:墓田 桂)訳では
「国内強制移動に関する指導原則」とされている。
この原則の序にあたる「範囲及び目的」の2に
「国内避難民」の定義が書かれている。
以下に示す訳文は墓田訳である。
「これらの原則の適用上、
国内避難民とは、特に武力紛争、一般化した暴力の状況、人権侵害もしくは自然もしくは人為的災害の影響の結果として、またはこれらの影響を避けるため、自らの住居もしくは常居所地から逃れもしくは離れることを強いられまたは余儀なくされた者またはこれらの者の集団であって、国際的に承認された国境を越えていないものをいう。」
「国内避難民」の定義には、「自然もしくは人為的災害の影響の結果として、またはこれらの影響を避けるため、自らの住居もしくは常居所地から逃れもしくは離れることを強いられまたは余儀なくされた者またはこれらの者の集団」と定義されており、福島原子力惨禍から避難した人々は「国内避難民」であることは明らかである。
それではGPIDは国内雛民に対しどのようなことを規定しているのだろうか。
それは、序の1に明示されている。
墓田訳がわかりにくいので、下の英文の原文を示し、評者の訳を付加する。
These Guiding Principles address the specific needs of internally displaced persons worldwide. They identify rights and guarantees relevant to the protection of persons from forced displacement and to their protection and assistance during displacement as well as during return or resettlement and reintegration.
訳文
この原則は、世界のどの地域においても国内避難者がぜひとも必要とするものについて規定している。この原則は国内避難者がどのような権利を持つかを特定し、強制的な移住から彼らを守るうえで必要となる保護を保障し、強制移住された期間および帰還、再定住および再統合の期間において必要となる保護と援助について規定するものである。
そして原則3は次にように国に国内避難民を保護し援助する責任を規定している。
原則 3
1. 国家当局は、その管轄内にある国内避難民に対して保護および人道的援助を与える第一義的な義務および責任を負う。
2. 国内避難民は、国家当局に対して保護および人道的援助を要請し、かつ、国家当局からこれらを受ける権利を有する。国内避難民は、そのような要請を行うことにより迫害されまたは処罰されてはならない。
日本政府は、国連人権理事会での勧告を受けて、この「国内強制移動に関する指導原則」を2019年に「国内避難に関する指導原則」として和訳したが、実際の政策には反映することなく、国内避難民を保護する責任をほとんど果たしていない。
そのことは、森松さんの著書の190ページに、
「復興庁、避難者消したら、復興か」 もとい、
「復興庁 早く私を 数えてよ」
という川柳が載っていることに端的に示されている。
二番目の川柳は、森松さん自身が避難者として数えられていないことを唄ったものである。
さらに原則15の(d)には、「自己の生命、安全、自由および健康が危険にさらされる恐れのあるいかなる場所への強制的な帰還または再定住から保護される権利」を国内避難民が保持することを規定している。
日本政府が、国内避難民の権利を一貫して侵害し続けてきたことは、
森松さんの、この著書に詳しく書かれている。
その結果、多くの方が、不本意な帰還や再定住、
そして、あきらめを余儀なくされている。
これは、「自己の生命、安全、自由および健康が危険にさらされる恐れのあるいかなる場所への強制的な帰還から保護される権利」を実質的に侵害していることにほかならず、GPIDに反する行為である。
5.9年間の思考の結晶である叡智の数々
森松さんの473ページの大著の中には、
森松さんの原子力惨禍以後の9年間の思考の結果である数多くの叡智が示されている。
そのいくつかを紹介する。
「パニックは、パニックを起こす側に問題がある」という、先入観を持つ人が多すぎると思います。しかし、3・11後に私が掴んだ事実の一つが、「パニックは、パニックを起こさせる側に問題がある」ということです。」(347ページ)
「同じ害悪が原因で被害を被っているのに、
「誰の」「何の」権利が侵害されているのかを見極めないまま、整理されないままですと、
ともすれば、同じ被害を受ける者同士が敵味方に分かれ、
潰しあっているように見受けられます(いわゆる分断)。
でも普遍的な「権利」、みんながもっている「権利」から考えるという風に
発想を転換すれば、無用な争いや目先の利益に惑わされることもないように思います。」(370ページ)
「『専門家』の見解というのも、
誰の何の利益を守っている発言なのかということを、
注視してみていかなければならないのです。」(406ページ)
6.おわりに
現在、日本政府は、強制避難地域への帰還を推し進めようとしている。
強制避難を解除して、福島原子力惨禍を終わったことにしようとしているのである。
そして、この次に大規模な放射能汚染をともなう原子力惨禍が起きたときには、
住民が避難することを許さず、汚染地に暮らし続けることを強制すると考えられれる。
評者は、これまでの5年間、
いわゆる宮崎早野論文を批判し続けてきたものである。
評者が何を批判しているかについては、
岩波書店「科学」2021年8月号に
評者と島明美氏と共著論考
「伊達市民の被曝線量を過小評価した大規模住民データ解析論文
―― 科学の規範を成り立たせるための宮崎・早野論文への総合的批判」
を読んでいただきたい。
ここでは宮崎・早野第2論文の結論を引用して、この論文が、
「次に大規模な放射能汚染をともなう原子力惨禍が起きたときには、住民が避難することを許さず、汚染地に暮らし続けることを強制する」ことを想定していることを示す。なお論文の日本語訳は評者によるものである。
第2論文の結論からの引用
「比例係数 c=0.15 が一般的に成り立つのでなくても、
著者たちは、この方法は、将来、周辺線量と個人線量の比例係数 c を求めることを 目的とした小規模の個人線量モニタリング調査によって補強された、定期的な航空機によるモニタリング調査によって汚染地域に住む住民の生涯線量を信頼度高く評価することが可能であると信ずる。」
比例係数 c とは、個人の被ばく線量率を、
その個人が住む住宅の付近の空間線量率で割った値のことであり、
c=0.15とは係数の平均値である(注)。
この結論に書いてあることは、
将来大規模な放射線汚染をともなう原発事故が起きたときには、
定期的に航空機による空間線量率の測定を行い、
係数=0.15ないしは小規模な個人線量モニタリングで得られた似たような係数の平均値を使えば、
住民が生涯どれだけの被ばくをするかが分かるので、
住民を汚染地域に住み続けさせることができるということである。
各個人の特性は無視され、年齢、性別、行動様式などはどうでもよく、
あくまでも係数の平均値によって代表される集団とみなされることになる。
森松さんのこの本は、
このようなディストピアをもたらさないためには私たちは何をするべきかを考えるための本である。
(注) 0.15は大幅に過小評価された結果だされたものである。
各種の過小評価を補正すれば、この値は0.6ぐらいに修正されなければならない。
最後に、加藤周一の「科学の方法と文学」という論考に戻り、
この書評を終わることにする。
加藤周一は、論考の中頃で、
聖書のマタイ伝6章28-29の言葉を次のように引用する。
「このことをたいへん美しい言葉でいっているのは、
『ソロモンの栄華も野のユリの一つにしかざりき』でしょう。
社会的な交換価値、市場価値からいえば、
何百万倍の価値がソロモンの栄華にあって、
野のユリの一つは、ほとんどただみたいなものです。
しかし詩人の立場からみれば、
野のユリの一つは何ものにもかえることができないのです。」
さらに、論考の終わり近くに、次のように書く。
「何を守るべきかを決めるのは文学で、
いかにして守るかということを決めるのは科学です。」
加藤周一が「野のユリ」というものは、
森松さんの著書でいえば「命」のことであると考える。
評者は、この書評の冒頭で、
森松さんのこの本を「哲学の本」と書いた。
しかし、森松さんの本は、「文学の本」でもあると思う。
そして、科学者である評者は、
加藤周一が論考の終わり近くに書いた次の言葉を紹介したい。
「もし、科学が詩人の価値、つまり一つの花を守るために動員されれば、
つまり、そのために役立てば、それは科学は文学に奉仕することになる。
科学と文学は対立するのではなくて、それは協力関係になる。
こういうことだろうと思う。」
哲学の本であり、同時に文学の本でもある森松明希子著の「災害からの命の守り方」を読めたことは、
評者にとって大きな収穫であった。
(全7,761文字)
素晴らしい書評をありがとうございます。
できるだけ多くの皆さまにご一読いただきたいです。
(参照)
※黒川眞一さん(高エネルギー加速器研究機構 名誉教授)のご紹介
◆被災地の被曝線量を過小評価してはならない - 黒川眞一|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
https://webronza.asahi.com/.../articles/2017051000005.html
◆「伊達市民の被曝線量を過小評価した大規模住民データ解析論文―科学の規範を成り立たせるための宮崎・早野論文への総合的批判」(「科学」 2021年8月号 - 岩波書店 )
https://www.iwanami.co.jp/book/b588079.html
◆「住民に背を向けたガラスバッジ論文――7つの倫理違反で住民を裏切る論文は政策の根拠となり得ない」(黒川眞一・島 明美「科学」2019年2月号-岩波書店)
https://www.iwanami.co.jp/kagaku/KaMo201902.html
◎『災害からの命の守り方ー私が避難できたわけー』森松明希子・著(文芸社)
http://sandori2014.blog.fc2.com/blog-entry-2422.html
※皆さまのお近くの図書館へのリクエストをよろしくお願い申し上げます。
そして何が問題であるのか、
市民にわかりやすく解き明かしてくださった
黒川眞一さん
(高エネルギー加速器研究機構 名誉教授)が、
素晴らしい書評を贈って下さいました。
心から感謝申し上げます。
黒川さんのご紹介くださる先達の珠玉の言葉は、
圧倒的に説得力があります。
そして時代を超えて勇気と希望と向かうべき方向を
指し照らしてくれるようです。
できるだけ多くの方々に広く共有していただきたいです。
(写真左)『災害からの命の守り方
ー私が避難できたわけ』(文芸社)
(写真右上)黒川眞一さん
(写真右下)「伊達市民の被曝線量を過小評価した
大規模住民データ解析論文
―科学の規範を成り立たせるための
宮崎・早野論文への総合的批判」
(岩波書店・科学 2021年8月号)

【書評】黒川 眞一さん(高エネルギー加速器研究機構 名誉教授)
1.この本は良く書かれた哲学書である。
この本は、2011年3月11日に起こった福島原子力惨禍により、
郡山から大阪に母子避難をした著者が、
日本国憲法前文に書かれている、
「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、
平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(平和的生存権)、
そして憲法13条の「すべての国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と
憲法25条の「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
を根拠として、
「避難の権利を含む、被ばくからの自由」を憲法上の権利であると主張するにいたる過程を書いた本である。
私の一読後の感想は、よく書かれた哲学の本だというものである。
私が「哲学」の本であるとするのは、
加藤周一の「科学の方法と文学」という論考において指摘する、
「信条というものは、感情的出発点があって、
それがさらに思考過程と結びついて出来上がるものです。
その結びつきにおいて、主観的なものが客観化される。
内在的なものが外在化される。
伝達不可能なものが伝達される。
それは、結局、一言でいえば、
経験、あるいは価値の特殊性を普遍性へ向かって超えてゆこうとする精神の働き」が描かれているからである。
以下に加藤周一の論考のその前後を引用する。
(引用) だから、文学と信念と科学の関係は、
「私」から「われわれ」を通じて「みなさん」の方へ行く関係になる。
私からわれわれに移るところの問題、
この移行が信ずるという行為です。
ですから、信条というものは、感情的出発点があって、
それがさらに思考過程と結びついて出来上がるものです。
その結びつきにおいて、主観的なものが客観化される。
内在的なものが外在化される。
伝達不可能なものが伝達される。
それは、結局、一言でいえば、
経験、あるいは価値の特殊性を普遍性へ向かって超えてゆこうとする精神の働きです。
(中略)
もう一つの特徴は、
信じるというときには、
複雑なものの全体を問題にすることが多いということです。
(中略) しかるに複雑な対象の全体を問題にするときには、
科学的には、不可能です。
科学は必ずやその全体をまとめて一挙に取り扱う方法は、
科学のなかには内在していない。
しかし対象の全体に対して態度を決めなければならないということは、
人生のなかでわれわれが絶えず出会うことです。
戦争に対して、平和に対して、私の友達に対して、その人格の全体に対して、
その態度を決定しないかぎり行動することもできない。
その意味で、全体の認識はわれわれの人生にどうしても必要なわけで、
その必要なことは決して科学的にはできないから、
信じるということが、必然的になってくるでしょう。
もし世界を解釈することではなく、
世界を変えることが大事だとすれば、
世界を変えるためには、信じることが大事だ。
こういうことになります。(引用終わり)
2.基本的人権から考える
基本的人権とはどういうものかについて、
私は3人の偉大な先人の次のような言葉を常に思いだすようにしている。
まず、私が大学生のときに直接教えを受けることができた
鶴見俊輔先生の言葉である、
「人権というものは言葉としてわかっているだけではだめだ。
人権の侵害に即座に反応するバネを自分の中に作らなければならない」。
次に、羽仁五郎さんの
「基本的人権とは水をいれる甕(かめ)のようなものだ。
ほんの小さな傷がついても甕は水をためることができなくなる。
それゆえ、どんな小さな人権侵害も許してはいけないのだ」。
そして、最後に、ハーバート・ノーマンが
「日本の兵士と農民」のあとがきに書いた次の言葉である。
「さて、過去において、日本の為政者が人民の直接の政治関与を妨げ、
またそれを抑えてきたために、
日本人はものごとに消極的な態度をとる習慣を身につけています。
これはどういうことかと言えば、
不正が行われているときに、腕をこまねいて傍観していることを意味します。
人権を護るのに勇気がどうしても必要であるということを
17 世紀のイギリス初期民主主義者はつぎのように雄弁にいいあらわしています。
『なぜなら、一人の身にふりかかることは万人の身にふりかかるだろうからである。
すべては一つの同胞なのであるから、
一人だけ不当に苦しむのはよくない。
みなともに一人の擁護につとめるべきである。
さもなければ、恣意と権力に途を譲り、
その虐政と抑圧の狂瀾(きょうらん)は
法と自由の堰(せき)を越えて襲いかかるだろう。
他人のために努めないならば、
たとえ露ほども思わないでも、
自分の権利に背き、権威に屈し、
自由の人も奴隷とすることになり、
平地に波瀾を起こすのを惧れる(おそれる)あまり、
今の世はおろか後の世までも裏切りの汚名を残すことになるだろう。』」
私がこの3名の先人に習ったことを、
著者の森松さんは、自ら考え自分の言葉で著書の中で表現している。
例えば、
「『人権』を単語として知ってはいても、
基本的人権を全身全霊で感じ、
尊厳を持って自分が本来手にしている基本的人権を全力で死守することが、
一番「命が守られる」ことに結果的につながる、
今、私は確信を持ってそう結論づけているのです。」389ページ
これは私が鶴見俊輔先生から教えていただいたことそのものである。
「3・11をさかいに、私はマイノリティ(社会的少数者)となりました。
(中略) しかし、たとえマイノリティであったとしても、
人権が踏みにじられたり、ないがしろにされて良いわけはありません。
(中略) 3・11から学ぶべきことは、たとえ少数であったとしても
(書評者注:人権を侵害されている人々が少数であったとしても)、
基本的人権が尊重される社会を実現しなければならないということです。」121ページ
まず少数の人々の基本的人権が侵害される。
これが、羽仁五郎がいう「甕の傷であり」、
ノーマンが引用する「一人の身にふりかかることは万人の身にふりかかる」ということである。
「私たちの生きている日本という国では、
権利の主張を忌み嫌う傾向(国民性と言って良いのかもしれない)があるように感じます。」344ページ
これはノーマンの冒頭の指摘そのものである。
3.避難の権利を含む、被ばくからの自由
「避難の権利を含む、被ばくからの自由」について、
著者は、第8章<逃げることは権利だ>の
9節 <「被ばくからの自由」の具体的権利内容>において
緻密な議論を展開している(267ページから271ページ)。
著者はこの権利は、
(1)絶対的被ばく拒否権、
(2)選択的被ばく回避権、
(3)被ばく情報コントロール権
の3つからなるとする。
「被ばくそのものが絶対的な生命・健康に関する権利の侵害であることが、
紛れもない事実であることから、人は生まれながらにして基本的に、
被ばくを絶対的に拒否することができるという権利」
すなわち絶対的被ばく拒否権があることをまず指摘し、
その上に、
「被ばくさせられる状況があることを知ったときには、
自由にいつからでも被ばくを回避する権利」
すなわち選択的被ばく回避権があり、
この回避権を行使するまたは行使しない自由が各個人にあるゆえに、
「避難の権利」は、この「選択的被ばく回避権」の行使であることを導く。
さらに
以上の2つの権利を行使するためには、
「被ばく情報コントロール権」、
すなわち、被ばく量や被ばく期間についての情報を知る権利が不可欠であり、
国や東京電力は市民に正確な情報を知らせる義務がある。
それにもかかわらず、国や東京電力は市民に情報を伝えず、
「被ばく情報コントロール権」が侵害されていることを指摘している。
評者は、森松さんが書く次の文章を特に重要と思うゆえ、
長くなるが、以下に引用する。
「絶対的被ばく拒否権と、選択的被ばく回避権は、両立するものなのです。
すなわち、選択的に被ばくを回避することが、
いつからでも、自由に、誰にでもできるということなのです。
そうであるにもかかわらず、放射能をばらまいた加害の側が勝手に強制避難区域を線引きし、
区域内外を設定し被ばく回避の道筋を保障せず、
また、被ばく回避の開始時や終了時を決めることなど、
権利侵害の上乗せ以外の何物でもないと言えると思います。
人は無用な被ばくに対し、
それを避けたいと思えば、どのタイミングからでも被ばく回避権を行使し(始期の自由)、
被ばくのリスクがあるかぎり回避し続け(期間の自由)、
被ばくの状況がなくなるまで、
もしくは被ばくを避ける権利よりも大切な権利のために、
一旦被ばく回避権を終了させることができると考えます(終期の自由)。
被ばく回避権は、どの段階においても妨害されることはなく、
そのための費用や負担が生じたときには、
それを補償しなければ、それは不作為による権利侵害にあたるといえるのです。」
ここには強制避難区域の勝手な線引きを行い、
被ばく回避の開始や終了を決めているのが、
放射能をばらまいた側の国と東京電力であり、
彼らに区域内外のどちらからの避難であっても補償の義務があることを明確にしたうえで、
住民の側に被ばく回避権を行使する自由があることを示している。
4.日本政府はGPIDを無視している
著者は、第5章2節において、
「避難の権利を含む、被ばくからの自由」は1998年に国連で採択された、
Guiding Principles on Internally Displacement (GPID)
という原則に定められたものであることを紹介している。
外務省による日本語仮訳ではこの原則は、
「国内避難に関する指導原則」であり、
GPID日本語版作成委員会(代表:墓田 桂)訳では
「国内強制移動に関する指導原則」とされている。
この原則の序にあたる「範囲及び目的」の2に
「国内避難民」の定義が書かれている。
以下に示す訳文は墓田訳である。
「これらの原則の適用上、
国内避難民とは、特に武力紛争、一般化した暴力の状況、人権侵害もしくは自然もしくは人為的災害の影響の結果として、またはこれらの影響を避けるため、自らの住居もしくは常居所地から逃れもしくは離れることを強いられまたは余儀なくされた者またはこれらの者の集団であって、国際的に承認された国境を越えていないものをいう。」
「国内避難民」の定義には、「自然もしくは人為的災害の影響の結果として、またはこれらの影響を避けるため、自らの住居もしくは常居所地から逃れもしくは離れることを強いられまたは余儀なくされた者またはこれらの者の集団」と定義されており、福島原子力惨禍から避難した人々は「国内避難民」であることは明らかである。
それではGPIDは国内雛民に対しどのようなことを規定しているのだろうか。
それは、序の1に明示されている。
墓田訳がわかりにくいので、下の英文の原文を示し、評者の訳を付加する。
These Guiding Principles address the specific needs of internally displaced persons worldwide. They identify rights and guarantees relevant to the protection of persons from forced displacement and to their protection and assistance during displacement as well as during return or resettlement and reintegration.
訳文
この原則は、世界のどの地域においても国内避難者がぜひとも必要とするものについて規定している。この原則は国内避難者がどのような権利を持つかを特定し、強制的な移住から彼らを守るうえで必要となる保護を保障し、強制移住された期間および帰還、再定住および再統合の期間において必要となる保護と援助について規定するものである。
そして原則3は次にように国に国内避難民を保護し援助する責任を規定している。
原則 3
1. 国家当局は、その管轄内にある国内避難民に対して保護および人道的援助を与える第一義的な義務および責任を負う。
2. 国内避難民は、国家当局に対して保護および人道的援助を要請し、かつ、国家当局からこれらを受ける権利を有する。国内避難民は、そのような要請を行うことにより迫害されまたは処罰されてはならない。
日本政府は、国連人権理事会での勧告を受けて、この「国内強制移動に関する指導原則」を2019年に「国内避難に関する指導原則」として和訳したが、実際の政策には反映することなく、国内避難民を保護する責任をほとんど果たしていない。
そのことは、森松さんの著書の190ページに、
「復興庁、避難者消したら、復興か」 もとい、
「復興庁 早く私を 数えてよ」
という川柳が載っていることに端的に示されている。
二番目の川柳は、森松さん自身が避難者として数えられていないことを唄ったものである。
さらに原則15の(d)には、「自己の生命、安全、自由および健康が危険にさらされる恐れのあるいかなる場所への強制的な帰還または再定住から保護される権利」を国内避難民が保持することを規定している。
日本政府が、国内避難民の権利を一貫して侵害し続けてきたことは、
森松さんの、この著書に詳しく書かれている。
その結果、多くの方が、不本意な帰還や再定住、
そして、あきらめを余儀なくされている。
これは、「自己の生命、安全、自由および健康が危険にさらされる恐れのあるいかなる場所への強制的な帰還から保護される権利」を実質的に侵害していることにほかならず、GPIDに反する行為である。
5.9年間の思考の結晶である叡智の数々
森松さんの473ページの大著の中には、
森松さんの原子力惨禍以後の9年間の思考の結果である数多くの叡智が示されている。
そのいくつかを紹介する。
「パニックは、パニックを起こす側に問題がある」という、先入観を持つ人が多すぎると思います。しかし、3・11後に私が掴んだ事実の一つが、「パニックは、パニックを起こさせる側に問題がある」ということです。」(347ページ)
「同じ害悪が原因で被害を被っているのに、
「誰の」「何の」権利が侵害されているのかを見極めないまま、整理されないままですと、
ともすれば、同じ被害を受ける者同士が敵味方に分かれ、
潰しあっているように見受けられます(いわゆる分断)。
でも普遍的な「権利」、みんながもっている「権利」から考えるという風に
発想を転換すれば、無用な争いや目先の利益に惑わされることもないように思います。」(370ページ)
「『専門家』の見解というのも、
誰の何の利益を守っている発言なのかということを、
注視してみていかなければならないのです。」(406ページ)
6.おわりに
現在、日本政府は、強制避難地域への帰還を推し進めようとしている。
強制避難を解除して、福島原子力惨禍を終わったことにしようとしているのである。
そして、この次に大規模な放射能汚染をともなう原子力惨禍が起きたときには、
住民が避難することを許さず、汚染地に暮らし続けることを強制すると考えられれる。
評者は、これまでの5年間、
いわゆる宮崎早野論文を批判し続けてきたものである。
評者が何を批判しているかについては、
岩波書店「科学」2021年8月号に
評者と島明美氏と共著論考
「伊達市民の被曝線量を過小評価した大規模住民データ解析論文
―― 科学の規範を成り立たせるための宮崎・早野論文への総合的批判」
を読んでいただきたい。
ここでは宮崎・早野第2論文の結論を引用して、この論文が、
「次に大規模な放射能汚染をともなう原子力惨禍が起きたときには、住民が避難することを許さず、汚染地に暮らし続けることを強制する」ことを想定していることを示す。なお論文の日本語訳は評者によるものである。
第2論文の結論からの引用
「比例係数 c=0.15 が一般的に成り立つのでなくても、
著者たちは、この方法は、将来、周辺線量と個人線量の比例係数 c を求めることを 目的とした小規模の個人線量モニタリング調査によって補強された、定期的な航空機によるモニタリング調査によって汚染地域に住む住民の生涯線量を信頼度高く評価することが可能であると信ずる。」
比例係数 c とは、個人の被ばく線量率を、
その個人が住む住宅の付近の空間線量率で割った値のことであり、
c=0.15とは係数の平均値である(注)。
この結論に書いてあることは、
将来大規模な放射線汚染をともなう原発事故が起きたときには、
定期的に航空機による空間線量率の測定を行い、
係数=0.15ないしは小規模な個人線量モニタリングで得られた似たような係数の平均値を使えば、
住民が生涯どれだけの被ばくをするかが分かるので、
住民を汚染地域に住み続けさせることができるということである。
各個人の特性は無視され、年齢、性別、行動様式などはどうでもよく、
あくまでも係数の平均値によって代表される集団とみなされることになる。
森松さんのこの本は、
このようなディストピアをもたらさないためには私たちは何をするべきかを考えるための本である。
(注) 0.15は大幅に過小評価された結果だされたものである。
各種の過小評価を補正すれば、この値は0.6ぐらいに修正されなければならない。
最後に、加藤周一の「科学の方法と文学」という論考に戻り、
この書評を終わることにする。
加藤周一は、論考の中頃で、
聖書のマタイ伝6章28-29の言葉を次のように引用する。
「このことをたいへん美しい言葉でいっているのは、
『ソロモンの栄華も野のユリの一つにしかざりき』でしょう。
社会的な交換価値、市場価値からいえば、
何百万倍の価値がソロモンの栄華にあって、
野のユリの一つは、ほとんどただみたいなものです。
しかし詩人の立場からみれば、
野のユリの一つは何ものにもかえることができないのです。」
さらに、論考の終わり近くに、次のように書く。
「何を守るべきかを決めるのは文学で、
いかにして守るかということを決めるのは科学です。」
加藤周一が「野のユリ」というものは、
森松さんの著書でいえば「命」のことであると考える。
評者は、この書評の冒頭で、
森松さんのこの本を「哲学の本」と書いた。
しかし、森松さんの本は、「文学の本」でもあると思う。
そして、科学者である評者は、
加藤周一が論考の終わり近くに書いた次の言葉を紹介したい。
「もし、科学が詩人の価値、つまり一つの花を守るために動員されれば、
つまり、そのために役立てば、それは科学は文学に奉仕することになる。
科学と文学は対立するのではなくて、それは協力関係になる。
こういうことだろうと思う。」
哲学の本であり、同時に文学の本でもある森松明希子著の「災害からの命の守り方」を読めたことは、
評者にとって大きな収穫であった。
(全7,761文字)
素晴らしい書評をありがとうございます。
できるだけ多くの皆さまにご一読いただきたいです。
(参照)
※黒川眞一さん(高エネルギー加速器研究機構 名誉教授)のご紹介
◆被災地の被曝線量を過小評価してはならない - 黒川眞一|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
https://webronza.asahi.com/.../articles/2017051000005.html
◆「伊達市民の被曝線量を過小評価した大規模住民データ解析論文―科学の規範を成り立たせるための宮崎・早野論文への総合的批判」(「科学」 2021年8月号 - 岩波書店 )
https://www.iwanami.co.jp/book/b588079.html
◆「住民に背を向けたガラスバッジ論文――7つの倫理違反で住民を裏切る論文は政策の根拠となり得ない」(黒川眞一・島 明美「科学」2019年2月号-岩波書店)
https://www.iwanami.co.jp/kagaku/KaMo201902.html
◎『災害からの命の守り方ー私が避難できたわけー』森松明希子・著(文芸社)
http://sandori2014.blog.fc2.com/blog-entry-2422.html
※皆さまのお近くの図書館へのリクエストをよろしくお願い申し上げます。
【目次】『災害からの命の守り方ー私が避難できたわけー』森松明希子・著(文芸社)

福島で原子力災害を目の当たりにしたごく普通の私が、
一人の人間として伝えたいこと。
災害からの命の守り方
─私が避難できたわけ─
森松明希子 (もりまつあきこ)
【目次】
はじめに
序 章 あの時、福島に何が起こったのか
0‐1 まさか原子力災害により避難を余儀なくされるとは、思いもしなかった
0‐2 ある日突然・・・
第1章 命の重さ
1‐1 大人は「命を大切に」って言うけれど・・・
1‐2 避難訓練の目的は何ですか?
第2章 3.11東日本大震災発生
2‐1 3・11当日ーあの日、福島で体験した現実
2‐2 福島の中で見た事実と外から見える事実
2‐3 メディアが伝えない原発避難の真実
2‐4 一日だけしか着られなかった制服
2‐5 マスクの束
2‐6 ダメダメ生活
2‐7 たった一度だけでも
2‐8 どうして私が避難するという決断に至ることが出来たのか
2‐9 水―もっとも衝撃的で辛かったこと
2‐10 母子避難は苦渋の決断
2‐11「避難の権利」の確立を求めて
2‐12 美味しんぼ事件
2‐13 「私は避難する」と言えますか?ー福島のお母さんの「ありがとう」の意味
第3章 3人の母親―あなたなら、どうする?
3‐1 3人の母ー避難した母・とどまった母・帰還した母
3‐2 「逃げないという選択」と個人の尊厳
第4章 ある日突然マイノリティ
4‐1 差別と人権
4‐2 真実を伝えるための裁判
4‐3 民主主義の根幹は「言論の自由」、そして「知る権利」ー「調べない、知らせない、助けない」は許されない
4‐4 真実を伝え、理解と共感の輪を広げるために
4‐5 被ばくを強要する立場とそれに反対する立場
4‐6 正常性バイアス
4‐7「津波てんでんこ」はあるのに、なぜ「放射能てんでんこ」はないのか?
第5章 先入観を打ち破れ!ースマホで探すな
5‐1 メディアが作り上げた言葉ー「言い換え話法」
5‐2「避難者」は国内避難民という認識、ありますか?
*国連『国内避難に関する指導原則』外務省(仮訳)公表についての記者会見
第6章 あなたは「避難者」になれますか?
6‐1 避難者と国内避難民
6‐2 ノーカウント戦法ー避難者数にカウントされない事実
6‐3「放射能」と言って何が悪い?
6‐4「爆発」と言わなかった重責
6‐5「メルトダウン」とか「メルトスルー」とか
6‐6「風化」と「風評」
6‐7 先入観を打ち破れ!ー自分の頭で考えるー
6‐8「避難」は「保養」の最たるもの
6‐9 逃げることは恥ですか?
第7章 守られない子どもたちー「原発いじめ」の正体
7‐1 みんなちがってみんないい
7‐2 おうちが二つ
7‐3 心が壊れる―アイデンティティの喪失
7‐4 ローマ法王に救いを求めた17歳の少年
7‐5 あのとき たくさん死んだから
第8章 逃げることは権利だ!
8‐1 あなたは「専門家」?
8‐2 問題の本質は何か?
8‐3 問題の本質を見るということ
8-4 原子力災害に直面したときの問題の本質
8‐5 水をかけてもダメでしょ
8‐6 福島原発事故で侵害された利益と避難の正当性
8‐7 憲法前文ー平和のうちに生きる権利(平和的生存権)
8‐8 憲法13条と21条ー尊厳と自由
8‐9「被ばくからの自由」の具体的権利内容
8‐10 憲法25条ー健康で文化的な最低限度の生活って何ですか?
8‐11 憲法14条ー命は平等に守られていますか?
8‐12 初期被ばくと「持続的被ばく」の理論
8‐13「被ばくからの自由」の二つの側面
8‐14 国際社会からみた3・11避難者
第9章 ある日、突然国連へ
9‐1 なぜ私は国連でスピーチすることが出来たのか
9‐2 つながりと日々の地道な発信
9‐3 国連人権理事会でのスピーチが意味するもの
*37回人権理事会本会議 森松明希子スピーチ
第10章 自分の頭で考えることが最高の危機管理
10‐1 国会に声を届けたい
*参議院 東日本大震災復興特別委員会 参考人 意見陳述
10‐2 二重住民票
10‐3 予防原則
10‐4「かわいそうな人」ではない
10‐5 大臣発言
10‐6「命を守る訓練」とは?
10‐7 憲法を盾にーコスタリカの実践に触れて
10‐8 権利主張を忌み嫌う国民性?
10‐9 リスクコミュニケーションという横文字
10‐10 人権問題として捉えていないと簡単に言論は封じられる
10‐11 避難者の会を立ち上げた理由
第11章 言論の封じ方
11‐1 助成金ーお金のはなし
11‐2 「お金もらってやってるんでしょ」
11‐3 「賠償金もらってるから」
11‐4 権利を勝ち取るという不断の努力
11‐5 分断を乗り越えるー安定ヨウ素剤の例
11‐6 不幸自慢の行き着く先ー「ふるさと論」による分断
11‐7 権利に名前をつけたいわけじゃない
11‐8「権利」は裁判官が決めるもの?
11‐9「ママだから」という言葉
11-10 住宅無償提供打ち切り問題も人権侵害
11‐11 「もっと大変な人がいるから」は権利を手放す理由にはならない
11‐12 我慢は美徳なのか
11‐13「フレコンの 前で子育て わたし無理」
11‐14 命を守る
終 章 3.11福島から新型コロナウィルス感染症まで
12‐1 見えないものとのたたかい
12‐2「逃げ切った」と言えるのか
12‐3 避難できたからそれで終わり、ではないのです
12‐4 新型コロナウイルス感染症も「災害」
12‐5 歴史は繰り返されるーノーカウント戦法
12‐6 二つの緊急事態宣言
12‐7 緊急事態宣言は魔法の杖でも魔法の呪文でもない
12‐8 来年は「ガマン」しなくてよいゴールデンウィークがやって来ますか?
12‐9 裸の王様
意見陳述書
註釈一覧
【3.11避難者の声】〜著者メッセージ〜
1.17の日に合わせて3.11の本を出版させて頂きました。
【目次】に渾身の思いを込めて見出しをつけました。
できるだけ多くの皆さまに拙著をお読みいただきたいです。
そして、分かち合いたいです。共有したいです。ご批判も含めて意見交換や討議討論もしたいです。
でも何よりも「事実」をまずは一番知ってほしいです。
そして、あなただったらどうするか?の答えをぜひ、探してほしいと思うのです。
※皆さまのお近くの図書館へリクエストを出していただけましたら大変ありがたく存じますm(__)m
『災害からの命の守り方ー私が避難できたわけー』
(文芸社・刊/森松明希子・著)
※全国どちらの書店からでもご注文・ご購入出来ます。
できるだけ多くの皆さまにお広めくださいm(__)m
1.17の日に合わせて3.11の本を出版させて頂きました。
森松 明希子さんの投稿 2021年1月17日日曜日
【目次】に渾身の思いを込めて見出しをつけました。
はじめに
序 章 あの時、福島に何が起こったのか
0‐1 まさか原子力災害により避難を余儀なくされるとは、思いもしなかっ...
【書評】無理解な社会に訴えるには同情ではなく、人間の尊厳を訴え、憲法に明記された人権の尊重を要求してこそ獲得するべきものであるby水戸喜世子さん/ 森松 明希子・著『災害からの命の守り方ー私が避難できたわけー』(文芸社)

【書評】水戸喜世子さん(Facebookより)
お正月に、森松明希子さんの新刊書「災害からの命の守り方~私が避難できたわけ~」を一気に読んだ。
感銘を受けたので、一端を紹介させてください。
470ページという長編だが、
読んでいく中で、著者にとってこれは必要最低限の紙数であることに、すぐに納得がいった。
冗長で退屈な場面は全くない。
体験した「避難者」に対する人権無視の扱いと不条理な世間の風当たり、無責任な政治のありように努めて理性的に、反論を試み、世論に訴える著者の姿勢に、ただただ敬服する。
思ってもみない東日本大震災と東電福島原発事故という非常事態に出会った時、著者は0歳と3歳の子どもを抱える普通のお母さんだった。どうやって幼子を放射能から守るか、情報もない中で混乱し、迷い、試行錯誤の中で、たどり着いた結論が関西への避難という選択だった。空気も水も汚染しているなかで、母乳を飲ませること自体が、危険極まりないことを直感されたのか。かつて8000キロ離れたチエルノブイリから飛来した放射性物質により、日本のお母さんの母乳から放射能が検出された事実はご存じなかったようだ。原発事故が起きたら汚染地帯から1メートルでも遠くへ逃げることは原発事故の際の鉄則だから、結果的に 関西への避難は正しい選択だったが、その正しい選択に対して周辺の人々の反応、社会の反応、政府の反応は理不尽そのものであった。
著者は精神的に葛藤しながら、不条理と立ち向かう為には同じ境遇の避難者が結束しなければ闘いを有利に進められないことに気づき、彼女は裁判でも避難者組織でも代表者となることを引き受ける。
一人の我が子の身を案じるお母さんから、一人一人が異なる環境異なる考えを持つ避難者集団の代表者として、その権利を代弁する役割を率先して担ったことにより、急速に普遍的論理を獲得してくことに。無理解な社会に訴えるには同情ではなく、人間の尊厳を訴え、憲法に明記された人権の尊重を要求してこそ獲得するべきものであると。反核の海外支援者とつながって国連での支援要請へと闘いの場を拡大していく。当事者と支援者が「同情」ではなく「人権」により、初めて横並びに、おのれの問題として 対等につながることができると彼女は確信するにいたる。
著者が力説する不当な扱いにもかかわらす、この本は痛快の書である。
暗さなど微塵もない活力に満ちている。希望さえ感じる。
やられたらやり返せ。われわれの武器は法律と人々の連帯。命以上に大事なものなんてどこにもない。時代は民主主義、憲法があるじゃない。国連人権規約があるじゃん!
国連人権理事会で2分間のスピーチが許されるチャンスが彼女に舞い込んだ。日本語であっても2分間で意を尽くすのは並大抵ではないのに、やったこともない英語で話さねばならない。反核をねがう人民のネットワークは素晴らしい。達人の支援者の特訓とサポートで見事に乗り切る場面はスリル満点、感動ものだ。彼女は書いている。
「仮にもう一度 国連人権理事会でスピーチの機会が与えられたとしても、私は全く同じスピーチを繰り返すでしょう」。その日本文を引用しておきます。
《37回 人権理事会本会議 森松明希子スピーチ》
森松明希子です。
避難者の母親とグリンピースと共に来ました。
私は2011年5月、福島の災害から逃れる為に、二人の子どもを連れて避難しました。
原発事故後放射能汚染は広がりました。
私たちに情報は開示されず、無用な被ばくを重ねました。
空気、水、土壌がひどく汚染される中、私たちは汚染した水を飲むしかなく、赤ん坊に母乳を与えてしまいました。
放射能から逃れ、健康を享受することは基本的原則です。
日本の憲法は「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和の裡に生存する権利」と書かれています。
しかし日本政府は,市民を守る施策はほとんど実施してきませんでした。
その上日本政府は、放射線量の高い地域への帰還政策ばかりに力を注いでいます。
日本政府は、国連人権理事会での勧告を直ちに受け入れ、実施してください。
国連加盟国の皆さんの、日本の人々への人権擁護の働きに感謝します。
今後も福島の、そして東日本の、特に脆弱な子どもたちを更なる被ばくから守ることに力を貸してください。
外国語はできないよりはできた方がいいに決まっている。しかし、それ以前にもっと大事なことは「語るべき主張を持っていること」だ。情けない動機で、バックパッカーとして世界を放浪して歩いた経験から私が学んだ真理。絶対これだけは伝えたいという強烈な意志さえあれば、人と人はつながりあえるもの。
彼女はこう語っている。「基本的に母語で自分の被害をきちんと訴えられることができれば十分であり、通訳や翻訳は、その能力やスペシャリストもいるわけですから、その方々に大いに力を発揮していただければ良いということも、私は明確に知ることになりました。ですからこれから先、何か自分の権利が侵害され、命の危険に晒されるような事態に遭遇したときには、たとえ英語が話せなくても、恐れず、臆さず、国連も一つの訴えや助けを求める先として、リストに加えていただければ良いのではないかと思います。」言語の本質を言い当てている。
原発事故のあと、被害者に対して政府や東電がとってきた対応は 卑劣の一言、人間性のかけらもないことは、「子ども脱被ばく裁判」を通じて検証済みだ。法律違反どころか放射性物質については法自体が不備のまま放置されているのが実態である。森松さんは幸い大学で法律を専攻されたことと無関係ではないだろう
「自分の頭で考えることが最高の危機管理」
と言い切る。同感だ。最終章は「3・11福島から新型コロナウイルス感染症まで」となっているが、福島原発事故から学んだ思考法を用いてウイルス事件を読み解く。間違っていないだろう
我が子への甲状腺検査については 「安心も安堵もできず、ただ淡々とこの先も検査を受け続けるのみです。
この心境を世界中の皆さまにはご理解、ご想像していただけるでしょうか?」と「持続的被ばく」について述べている個所には、胸がキリキリと痛んだ
コロナ下を生き抜くための書としても、ぜひとも多くの方に読んでいただきたい。展望と元気が出ること請け合いである。
お正月に、森松明希子さんの新刊書「災害からの命の守り方~私が避難できたわけ~」を一気に読んだ。感銘を受けたので、一端を紹介させてください。
水戸 喜世子さんの投稿 2021年1月5日火曜日
470ページという長編だが、読んでいく中で、著者にとってこれは必要最低限の紙数であることに、すぐに...
https://www.facebook.com/kiyoko.mito.98/posts/1621197848059596
【書評】「触れると熱く感じるぐらいの熱量や、命懸けの圧力を感じます。」by津久井進弁護士/ 森松 明希子・著『災害からの命の守り方ー私が避難できたわけー』(文芸社)

災害ケースマネージメント◎ガイドブックのご著者で
日本弁護士連合会災害復興支援委員会委員長の
津久井進先生より素晴らしい書評をいただきました☆
感謝ですm(__)m
【書評】津久井進さん
森松 明希子著『災害からの命の守り方ー私が避難できたわけー』
は、2021年1月17日発刊です。
全473頁というブ厚い本で、まだ一部拾い読みしたに過ぎませんが、ご紹介せずにいられません!
「ことだま(言霊)」にあふれているというか、
1ページ1ページに綴られた言葉の群れが、
彼女が、守り抜いて、苦しみ抜いて、悩み抜いて、闘い抜いて、考え抜いた末に、全力で絞り出した「ことば」の数々で、
触れると熱く感じるぐらいの熱量や、命懸けの圧力を感じます。
・大多数の「ふつう」が突然にマイノリティになる、災害
・助けて!と言えない社会、逃げることを否定する社会
・声を上げなければ、時機は来ない
・メディアが作り上げる言葉、「言い換え話法」
・「原発いじめ」問題は、社会の縮図
・「調べない、知らせない、助けない」ノーカウント戦法
・「被ばくからの自由」「避難の権利」は憲法の基本的人権
・感染症も災害。3.11後をトレースしているかのよう。
・自由な思考の連続によって、命は紡がれ、繋がれ、守られる
キリがないぐらい圧倒的なメッセージを送り続ける森松さんは、
ラストの締め括りで、これは「苦渋の決断の連続だ」と言ってます。
私たちが、この彼女の状況・心境を少しでも想像できたとき、
「災害からの命の守り方」が獲得できるのだろうと思います。
この本をゆっくり最後まで読む前に、今のこの私の興奮を、皆様と共有させて下さい!
(津久井 進先生Facebookより・2020年12月12日 15:17)
森松...
津久井 進さんの投稿 2020年12月11日金曜日
【出版のごあいさつ】『災害からの命の守り方ー私が避難できたわけー』森松明希子・著(文芸社)

東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream(サンドリ)代表の森松明希子が
新著『災害からの命の守り方ー私が避難できたわけー』(文芸社)を出版致しました。
文芸社:https://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-21793-2.jsp
平日9:30~18:30通話無料 0120-03-1148
本人よりご挨拶です。
【出版のごあいさつ】
ともに歩んでくださるすべての皆さまへ
いつも原子力惨禍の被害者・避難者のために心を砕きお支えくださり、ありがとうございます。
このたび拙著『災害からの命の守り方~私が避難できたわけ~』を東京の文芸社より 上梓いたしました。
3.11東日本大震災および東京電力福島原発事故を契機に、福島県から大阪府方へ子どもたちを連れ避難を続けている私ですが、
その時時で必要な皆さまからのお支えと、
声を上げる手助けをいただいたからこそ、
原子力惨禍の被災者の声を、
この10年間、間断なく伝え続けることができました。
そしてこの度は、このように1冊の本にまとめることができましたのも、多くの皆さまのご厚意とサポートがあったからこそであって、私一人の力では決してございません。
出版に至るまでに惜しみないご協力をいただきました皆様方はもちろんのこと、これまでつながり、支え続けてくださった皆様方には筆舌に尽くしがたい感謝の気持ちでいっぱいです。
本当にありがとうございました。
お手にとってご一読を頂けましたら大変ありがたく存じます。
また、ご一読くださり、忌憚のないご意見やご感想などを頂けましたら幸いにございます。
2011年3月11日に起きた東日本大震災およびその直後に発災した福島原子力惨禍から、もうすぐ丸10年となります。
前著『母子避難、心の軌跡』(かもがわ出版・2013 年)では書ききれなかった3.11当時の思いや、発災直後の様子、様々な葛藤も含め、国と東京電力を被告とする民事集団訴訟(国家賠償請求訴訟)に取り組む意義など、原発国内避難当事者としての視点から、個人の尊厳(日本国憲法第13条)と基本的人権の尊重をベースに書き記しました。
世界中がコロナ禍の今、2020年は、3.11からの10年間をまるでトレースしているかの ように感じています。
目に見えない命に関わる脅威と対峙するとき、何を最も大切にしなければならないのかがより鮮明に私たちには突きつけられているように感じています。
「人の命や健康よりも大切で守らなければならないものはあるのでしょうか」、という問いかけは、自分自身も含めて全ての人と共有したい問いかけであると思っています。
「生きてこそ」、そして「個人の尊厳」が守られることの重要性と「平和のうちに生存する権利」を 手放したくないという強い思いをもって、これからも一歩ずつ歩んで参りたいと思います。
「放射線被ばくから免れ健康を享受する権利」を基本的人権として確立し、「無用な被ばくを避ける権利」(「避難の権利」)を福島原子力惨禍からの教訓として確立できますよう、
これからも行動出来ることは思い残すことなく行動して参りたいと存じます。
皆様方のより一層のご助言、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます。
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream(サンドリ)代表
原発賠償関西訴訟原告団代表
原発被害者訴訟原告団全国連絡会共同代表
福島県郡山市→大阪市に2児を連れて母子避難中
東電福島原発事故による国内避難民(IDP)
森松明希子
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=2785136011741884&id=100007365376700

【写真報告集】☆ななつ星ツアー2019☆ 子ども達を福島事故の被ばくから守る母親ツアー
☆ななつ星ツアー2019☆
子ども達を福島事故の被ばくから守る母親ツアー
写真報告集が完成しました!
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream(サンドリ)ブースや情報交換会等様々な機会を通して展示・閲覧の場面を設けて参りたいと思います✨
27日間で25講演・証言活動全ての写真を収録しています。
ぜひ機会があればご覧ください😊
閲覧してもらえるよう、持ち歩いていきますので、
お声がけ下さい(^^)
※本ツアーに関わりサポート下さいました世界中の皆さまに心より感謝申し上げます✨

2019年3月〜4月、
27日間で25講演して,欧州各地で
東京電力福島第一原子力惨禍の被害の実相と
人権侵害についてお話をさせていただきました。
その報告写真集が完成いたしました!
☆ななつ星ツアー2019☆
子ども達を福島事故の被ばくから守る母親ツアー
子ども達を福島事故の被ばくから守る母親ツアー
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東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream(サンドリ)ブースや情報交換会等様々な機会を通して展示・閲覧の場面を設けて参りたいと思います✨
27日間で25講演・証言活動全ての写真を収録しています。
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閲覧してもらえるよう、持ち歩いていきますので、
お声がけ下さい(^^)
※本ツアーに関わりサポート下さいました世界中の皆さまに心より感謝申し上げます✨

2019年3月〜4月、
27日間で25講演して,欧州各地で
東京電力福島第一原子力惨禍の被害の実相と
人権侵害についてお話をさせていただきました。
その報告写真集が完成いたしました!
☆ななつ星ツアー2019☆
子ども達を福島事故の被ばくから守る母親ツアー
【サンドリ文庫】図解17都県放射能測定マップ+読み解き集(みんなのデータサイト出版)のご紹介&推薦☆

みんなのデータサイトhttps://minnanods.net/
KANSAIサポーターズのTさんより
↓
みんなのデータサイト
東日本土壌ベクレル測定プロジェクト
https://minnanods.net/soil
では,放射線減衰推計100年マップを公開されています。
静岡から青森にいたる17都県について土壌汚染を測定した結果から,事故直後の推計値と将来予測が出せるそうです。2011年から10年後,20年後,30年後,100年後の汚染地図が都県別にみられるようになっています。これは放射線が一定の規則にしたがって減衰する性質を利用したものです。
チェルノブィリ被害三国では政府が地図を作製して公開しており,たとえばベラルーシ共和国チェルノブィリ省が作製した大判の分厚い地図は事故直後から10年ごとに70年後までの汚染状況が州ごとに把握できるそうです。
日本政府は土壌汚染を測定しておらず,政府の(航空機による)空間線量データからは将来推計はできないそうです。したがって日本政府は将来推計の地図を作製できないでしょう。また調査は半減期の短いセシウム134が測定できなくなる前にやる方がベターで,おそらく日本ではこれが唯一の地図になる可能性があります。
最近出版された「17都県放射能測定マップ+読み解き集」では,
チェルノブィリ法との詳細な比較や,
多面的な関心にこたえるやさしい解説,用語集などがあり,
親切な編集がされています。
日本の状況を世界の人に知らせる場合,この本の内容が活用できるとおもいます。
みんなのデータサイト https://minnanods.net/
【3.11避難者の声】
【サンドリ文庫】福島のお母さん、いま、希望は見えますか?@棚澤明子さん・著(彩流社)のご紹介

※第8章(Ⅷ)で、
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream(サンドリ)代表・森松明希子さんが
取り上げられています。(161頁〜186頁)←ぜひお読みください‼
棚澤さんの福島原子力惨禍に対してのふつうの福島のお母さんたちの声を取り上げてくださったご著書は
「福島のお母さん、聞かせて、その小さな声を」(彩流社・1,800円)もあります。
本著はそれにつづく、第2作目です。
普通に暮らしていた「お母さん」の声なき声、思いをここまで誠実に、真摯に表現されたご著書は他にないと思うのです。
ぜひ多くの皆さまに、棚澤明子さんのご著書を手にとって、その声に耳を傾け、
そして、ご自身に起こりうる可能性、その時あなたならどのお母さんの声に近い状況なのかを、
どうか想像しながらお読みいただきたいです!
東日本大震災避難者の会 Thanks & Dream(サンドリ)おすすめ【書籍】に追加の一冊です☆